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Channel: おやじのつぶやき
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5月21日。「小満」。蚕。紅花。麦秋。らっきょう。アジ。衣替え。・・・そして、「G7」。

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今日、5月21日は、二十四節気の第8「小満」。

東京地方。このところ、真夏日になったり、雨が降ったり止んだり、変化の激しく、すっきりしないお天気が続きます。「走り梅雨」でしょうか。晴れたり曇ったり、雨が・・・。

しばらくすると、本格的な梅雨に入ります。

「小満(しょうまん)」とは、あらゆる生命が満ち満ちていく時期のこと。

太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。

七十二侯では、

・初侯 5月21日〜5月26日頃

蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ

蚕が、桑の葉をたくさん食べて成長する頃。人々の暮らしを支えていたため、「おかいこさま」と敬称をつけて呼ぶ地方もありました。

※1 幼虫は桑の葉を食べて育ち、糸を分泌して繭をつくりその中で蛹に変態する。この糸を人間が繊維素材として利用したものが絹である。・・・カイコは絹の養蚕のために家畜化された昆虫であり、野生動物としては生息しない。そのため家蚕(かさん)とも呼ばれる。また野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても自ら探したり逃げ出したりすることがなく、人間による管理なしでは生きることができない。カイコを野外のクワにとまらせても、餌のクワの葉を探さずに餓死したり体色が目立つ白であるためにすぐに捕食されたり、腹脚の把握力が弱いため自力で付着し続けることができず、風で容易に落下したりして死んでしまう。成虫もはあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるが飛ぶことはほぼできない。(「Wikipedia」より)

※2 養蚕の歴史は古く、紀元前15世紀頃に中国で始まり、その後、日本や遠くヨーロッパに伝わっていきました。絹織物は当時大変な貴重品であり、皇帝や国王などの権力者への献上品や、友好国への贈り物として用いられました。絹織物はその美しさから世界中の人々を魅了し、ペルシャや古代ローマの商人は海、山、砂漠などを越え、危険な目に遭いながらも絹織物を求めて中国までやってきました。交易路として彼らが通った道は、「シルクロード(絹の道)」として現在も知られています。(「農研機構」より)

・養蚕業が盛んだった頃は、群馬県、栃木県や埼玉県北部などでは桑畑を多く見かけましたが、歩いている中では、まったく見かけることができませんでした。

・50年以上前、高校生物の授業では生物解剖というと、どういうわけか、蚕の幼虫でした。今はまったくそういう話を耳にすることがありません。

・次侯 5月27日〜5月31日頃

紅花栄 べにばなさかう

あたり一面に紅花が咲く頃。紅花は古代エジプト時代から染料として利用されていました。花びらの水に溶ける黄色の色素と、水に溶けない赤の色素から、紅色がつくられます。

※3 紅花は、アザミに似たキク科の花で、古名を末摘花(すえつむはな)、紅藍(べにあい)、久礼奈為(くれない)とも呼ばれ、7月の梅雨の時期から梅雨明けにかけて、真黄色の花を咲かせます。
 原産地の中近東からシルクロードを経て、3世紀頃に渡来した紅花は山形で美しく花開きました。特に江戸時代においては、土も肥えて水はけもよい最上川流域は紅花の一大産地となり、山形の紅花は京都や大阪で大変重宝されました。
 昭和57年には、紅花が山形県の花として定められ、山形県民に広く親しまれています。現在では、加工用品種の「もがみべにばな」や、切花用品種の「とげなし紅花」・「しろばな紅花」などが、山形県内の村山・置賜地方を中心に栽培されております。

(「」HPより)

・末侯 6月1日〜6月5日頃

麦秋至 むぎのときいたる

麦が熟し、たっぷりと金色の穂をつける頃。百穀が成熟する、麦にとっての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。

(解説の項は「暦生活」HPより)

          

     この麦畑が一面黄金色に染まったらさぞ見事でしょう。(写真は、昨年5/3「日光東往還」歩きの時のもの)

※4 「秋」を「とき」と読む。「危急存亡の秋」の「秋」も「とき」と読むことに注意。漢字も正しく書きましょう。

「危急存亡の秋」は、魏・蜀・呉の三国時代、魏との戦いに出征する蜀の諸葛孔明の『出師の表』にある言葉。「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に基づく。「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから、重大な時機を示す語。

旬の食べ物としては、「らっきょう」、「アジ」。

・らっきょうの旬は5月頃から7月頃まで。6月頃が出荷の最盛期です。取り扱い量は約893トン。最も多いのは鳥取県産(約363トン)で全体の約41%を占めています。続いて鹿児島県産(約316トン:約35%)、茨城県産(約63.7トン:約7%)となっています。〈ただし、この数値は「東京都中央卸売市場」扱いに基づく。〉(「野菜ナビ」HPより)

・アジは1年を通して獲ることのできる魚であり、日本国内であればいつでも手に入れることができます。 ただ、アジの旬といわれる時期は春~夏にかけてです。 資料によって多少の違いはありますが、5月~8月程度に獲れるアジは質が良く、特に6月~7月のアジは非常に食味に優れます。

(「ふるさと納税」HPより)

そして、6月1日は、「衣替え」。

衣替えの習慣は、平安時代の宮中行事から始まった。中国の風習に倣って旧暦の4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣(こうい)」と呼んだ。

しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。季節による取り替えは衣服以外についても、女房が手に持つ扇も冬は桧扇(ひおうぎ)、夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、更衣は衣服だけでなく調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代になると着物の種類が増え、江戸幕府は公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。武家の制服は、旧暦の4月1日 -5月4日が袷(あわせ=裏地付きの着物)、5月5日 - 8月末日が帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日 -9月8日が袷、9月9日 - 翌年3月末日が綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、一般庶民もこれに従った。

明治時代になると、明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

1873年(明治6年)1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日 -9月30日が夏服、10月1日 - 翌年5月31日が冬服と定められた。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。(「Wikipedia」より)

かつてはこういう風に半ば制度化されていたため、特に制服のある学校では肌寒い日でも夏服、暑い日でも冬服と決められていた。(たしか、クーラーなどの冷暖房機器運転もそうなっていたような)。

一方で、昨今のように5月中に夏日となっても、冬服を着用させたり、クーラーも5月中は運転しないなど・・・。おかしな風習(風潮)もありました。

さすがにそれじゃ健康・活動にそぐわないと、5月、6月は夏服・冬服併用(9月・10月も同様)でも可にしたり、クーラーも運転可としているように、真夏のような東京地方の暑さの厳しさから、それも次第になし崩しになってきています。

熱中症が怖いですから。

官民問わず、「クールビズ」がすっかり定着し、ノーネクタイが一般的になっています。

世の中も暑さ・寒さで一喜一憂。政財界も同様? 

ウクライナのゼレンスキー大統領がG7に参加することに。今回の「G7」。バイデンでも岸田でも無く、主役が交代。さすが元タレント。

世界平和、核兵器廃絶に向かって、まとまっていくなら素晴らしいことでしたが、どうもそうでは無くなってきました。

が、ゼレンスキーは駒に過ぎない。ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、西側諸国が、対ロのみならず、対中・対北朝鮮への共同戦線を構築することで、日本は、アメリカの思惑通り、その尖兵として戦線の最先端として位置づけされ、戦争(下手すれば第3次世界大戦)につながっていくとすれば、果たしてどうなのか。・・・

そうした日本の置かれた状況になりそうでありながら、このところ、岸田さんの人気も上がり、新型コロナもインフル並みに。

株価も3万円台を突破、企業も好景気。ベースアップも高水準。

遅れて新型コロナにかかってしまった家族、年金生活者はどこの世界のお話という感じです。

次の二十四節気は、6月6日「芒種」。


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