JR宇都宮線「古河駅」から茨城急行バスで「諸川」まで。今回はJR水戸線「結城駅」まで。
「諸川」交差点。
「諸川宿」には、古い家並みが残っています。
染谷商店。重厚な見世倉。
「下総国諸川 米穀 肥料 創業大正七年 染谷喜重商店」とあります。さらに、正面のところに「絵手紙 絵画 英会話教室 留学相談無料」とも。
奥に、本陣中村家の長屋門。
重厚な蔵造り。
諸川宿(もろかわしゅく、もろかわじゅく)
江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市諸川に相当する。
日光東街道の起点となる日光街道との追分から数えて7番目の宿場である。
江戸時代以前の諸川は「茂呂河」とも呼ばれ、結城氏庶流の豪族・山川氏の所領であったと考えられている。
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一豊公記』)、このころには町屋が整備されていたことが分かる。このとき、山内一豊は妻から大坂・石田三成方の情勢を知らせる「笠の緒の密書」を受け取り、下野・小山に在陣中の徳川家康に届けることで、家康の信頼を得た。その後の立身のきっかけとなった場所でもある。
宿駅の成立は、元和5年(1619年)頃と考えられている。宿駅の管理は主に幕府が担った。ただし、寛永16年(1639年)から18年までは下野国の壬生藩領、寛永18年から宝暦元年(1651年)までは旗本領 であった。
文政 4年(1821年)の『諸川町村鑑明細帳』によれば、家数は95軒、人口は376人(男198人、女178人)である。町の中央には本陣と脇本陣が一軒ずつあり、本陣の正面に高札場があった。
宿場の位置は、現在の国道125号と日光東街道に相当する県道17号の交差点「諸川十字路」付近を南端とし、県道17号沿いの諸川郵便局付近を北端とした。南から順に上町・仲町・下町、および途中で東側に分岐する下妻道沿いの新町から構成された。
(この項、「Wikipedia」より)
※山崎宿、中里宿、関宿、境宿、谷貝宿、仁連宿、諸川宿と7つの宿場を通過。残りは、武井宿、結城宿、多功宿。
向かいには「大橋醤油店」。
店先には大きな釜。
奥に工場が広がっています。
蔵造りの三和諸川郵便局。
薬医門に長い塀を巡らせたお屋敷。脇本陣小林家。
郵便局の隣にも立派なお屋敷が。
※「薬医門」・「薬師門」
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。
(この項「薬医門https://www.kcn-net.org › mon › yakuimon › yakuimon」HPより)
この付近までが「諸川宿」だったようです。宿内を振り返る。
「西仁連川」に架かる「宝来橋」の手前に旧道が残っていて、右手に石碑があります。
右手に大きな記念碑。
その足もとに「鎌倉街道」というかすれた標識が。
※この案内板は、結城市に入ってからもありました。
「西仁連川」。
結城市に入ります。