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Channel: おやじのつぶやき
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霊岸島。豊海橋。越前堀(児童)公園。(震災復興52小公園。その24。)

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 「越前堀(児童)公園」と「明正小」。日本橋川、隅田川、亀島川、旧新川(現在埋め立てられている)に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた。現在は、一大商業地域。そのほぼ中央に位置する。

《霊岸島》

 霊岸島の歴史は、江戸初期に八丁堀先の東方海上を埋め立て、雄誉霊巌上人が霊巌寺を建立したことにはじまる。霊岸橋もこれに由来するといわれ、「こんにゃく島」との里俗名もあった。明暦の大火後、霊巌寺は深川に移転するが、霊岸島の地名は、霊岸島はもとより、霊岸島塩町、霊岸島四日市町などとして継がれ、酒問屋・酒蔵が集積し、初物好きの江戸っ子連に新酒を扱っていた。関東大震災後は区画整理で一帯が旧霊岸島の町名となり、旧越前堀・旧新川とともに親しまれた地域であった。(「中央区観光協会オフィシャルブログ・中央区観光協会特派員ブログ」より)
 
「越前堀児童公園」にある「霊岸島」の碑。

 当地区は、今から370〜80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。
 寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
 明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、四日市町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。
 大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971年)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
 昭和52年3月 霊巌島保存会

周辺の見所(の一部)。
 
 そこで、寄り道。ここも、関東大震災に関わるもの。

《豊海橋》

日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
「日本橋川」の西側を望む。
「豊海橋」。

「はしご」を横にしたようなかたち。

由来碑。永井荷風の一文も刻まれている。

「日本橋川」が隅田川に合流するところに架かる橋。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。


同じ地域の、1970年代のようす(「同」より)。明正小の最近まで使用されていた「戦災復興校舎」が写っている。

 「永代橋」は、明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、現在の場所に架橋された(「日本橋川」河口の北から100?ほど南へ)。
 しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年(1926年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。
 この橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもあるとのこと。
「日本橋川」河口付近から「永代橋」を望む。

《越前堀》
近年、出土した「越前堀」護岸に用いられた石垣石。公園内に設置。
説明文。
 内容は、次のものの碑文とほぼ同じだが、特にこの公園は「関東大震災復興公園」の一つとしてつくられたことが記されている。

「明正通り」沿いある「越前堀跡」碑。

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
 平成17年3月 中央区教育委員会

青い線が推定される「越前堀」。その赤いところから出土した。


公園周囲の石垣にも出土した越前堀護岸用の石垣を用いている。
説明板。
 周囲を堀・川で囲まれた地域であったことが分かる。


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