林の中の道を進みます。左手に荒川の流れ。
木洩れ日の中。
「長瀞八景」。上長瀞の清流と林。・・・四季折々、心ゆくまで楽しめる風情です。
高浜虚子「ここに我 句を留むべき 月の石」。
仲秋の名月をイメージして詠まれたと伝えられ、この句にちなんで『月の石もみじ公園』と名づけられた、とのこと。紅葉がみごとなところのようです。
(「」より)
上左の写真は宮沢賢治の歌碑。歌は玉淀の歌碑と同じ。
寄居町と長瀞町に建つ宮沢賢治の2つの歌碑は、どちらも荒川岸にある。土手をしばらく下っていくと、ごつごつとした巨大な岩が目の前に現れる。じりじりと夏の陽に焼かれた岩の上から透明な川面に手を浸すと、ひんやりと冷たかった。
〈毛虫焼くまひるの火立つこれやこの秩父寄居のましろきそらに〉
〈つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ〉
賢治は荒川に横たわる茶褐色の岩石「虎岩」のしま模様の美しさを博多帯に例えた。大正5年9月3日の早朝、賢治ら一行は熊谷から秩父鉄道に乗り込み寄居に向かった。岩石を採集しながら荒川を上っていき、途中で再び鉄道に乗り、国神(現上長瀞)で下車したとみられている。このときに賢治が採集した岩石標本の一部は、今も岩手大で保管されている。
この日の宿泊先の可能性が高いと考えられているのが、国神村(現皆野町)金崎の「梅乃屋旅館」だ。当時の金崎には荒川駅が置かれ、すぐ近くにあった梅乃屋旅館には地質調査・見学に訪れた人々の宿泊も多かった。邸内に秩父岩石化石陳列所が開設されていたこともあるという。
(この項、「産経新聞・2016.8.27」より)
地球の窓「長瀞」。
長瀞の美しい渓谷は、地下20~30キロメートルの高圧化でつくられた結晶片岩が隆起し、荒川の清流で磨かれてできたものです。明治10年に近代地質学が日本に導入されると、翌年にはナウマン博士が長瀞を訪れました。以来、長瀞は、多くの研究者や学生が訪れるようになり、「日本地質学発祥の地」といわれています。岩畳は、幅50㍍、長さ600㍍に及ぶ広大な岩石段丘です。ここは、かつての荒川の流れでできたポットホールをはじめ、断層やしゅう曲などがみられ、地質学の宝庫として自然観察の絶好の場となっています。
「日本地質学発祥の地」碑。
明治時代になると、日本に訪れた近代化の潮流のなか、政府によって地下資源開発を目的とした全国的な地質調査がはじまりました。明治8年(1875)、「ナウマンゾウ」で有名なドイツの地質学者であるナウマン博士が政府により招聘され、明治10年(1877)には東京大学の初代地質学教授となりました。
ナウマンは、着任の翌年である明治11年(1878)、さっそく秩父を訪れています。この時は秩父から長野、山梨、神奈川県へ至る調査であり、三峰口の贄川宿、三峯神社にも泊まったと伝えられています。その後、ナウマンの一番弟子である小藤文次郎は世界で初めて紅簾石片岩を報告(1888)、大塚専一は「秩父古生層」「秩父盆地」を命名、原田豊吉は山中地溝帯(現在の「山中層群」または「山中白亜系」)を命名(1890)するなど、著名な研究者たちが続々と秩父の地から全国の地質研究に大きな影響を及ぼしています。(「ジオパーク秩父」HPより)
「埼玉県立自然の博物館」。
秩父鉄道「上長瀞駅」から荒川に向かうと埼玉県立自然の博物館前にでます。駐車場には宮沢賢治の歌碑があり、わきの道を下がると川べりにでます。左岸の茶色と白の縞模様が見られる大きな岩が虎岩です。茶色は「スティルプノメレン」という鉱物で白い部分は割れ目を埋めた方解石です。川岸の岩には金色に輝く黄鉄鉱の結晶も見られるので探してみましょう。「虎岩」は茶褐色のスティルプノメレンと白色の長石や石英などが折り重なり、折りたたまれることによって虎の毛皮のような模様に見えることからこの名がつけられました。これは地下深部の高い圧力のもとで形成されたものです。この岩石はスティルプノメレン片岩といい、鉄やアルミニウムに富んでいます。周囲の緑がかった緑泥片岩中には、黒光りする正八面体の磁鉄鉱が入っていることもありますので探してみましょう。
1916年(大正5年)の地質巡検の際に長瀞を訪れた宮沢賢治は、虎岩を見て『つくづくと「いきなもやうの博多帯」荒川岸の片岩のいろ』と詠ったといわれています。宮沢賢治が「粋」な博多帯になぞらえた虎岩を眺めて、当時に思いを馳せてみましょう。(「同」HPより)
「虎岩」。