?十思公園(旧十思小)
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日本橋小伝馬町にある公園。「十思」と言う名前は隣接する廃校になった小学校の名前。今は「十思スクゥエア」という中央区の施設になっている。この小学校は明治11年創立。そのときの住所が「第一大区第一中学区第十四小区」と中国の司馬光の著書「十思之流疏」と掛け合わせた命名だそうです。「十思小学校」は関東大震災後の復興小学校のひとつで、その歴史ある建物を保存しようと区の施設として存続させることになった。公園は、学校と一体型の「震災復興52小公園」の一つ。
旧十思小学校は明治11年に十思学校として開校しました。“十思”という名称は、開校当時の住所であった旧伝馬上町が第一大区第一中学区第十四小区に属する、つまり十四小区の学校であることからと、資治通鑑※1の「十思之疏」※2の十思の語と音が通じるところから「十思小学校」と名づけられました。この「十思之疏」は人の主となる者の守らなければならない大道であって、申し分のない枚処世訓であり、十思小学校の校風にも反映されていていました。
※1資治通鑑(しじつがん):
宗の司馬光の著書。周の威烈王から五代の終わりまで、113主1362年間の歴代君臣の事跡を編年体に編纂した書。治世に利益があって歴代為政者の鑑(かがみ)とするに足る意
※2十思之疏(じっしのそ):
唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十か条を列挙した、天子のわきまえなければならぬ戒め
見可欲則思知足 欲すべきを見れば則ち足るを知ると思う
:欲しいと思ったときでも、足りれば十分であることを知って、いたずらに多くをのぞまないこと。
将興繕則思知止 将に興繕せんとすれば則ち止まるを知ると思う
:工事などを起こすにあたっては、止めるべき程度を知ること。
処高危則思謙降 高危に処すれば則ち謙降を思う
:高い地位にいる人ほど、へりくだるようにしなければいけないこと。
臨満盈則思ユウ*損 満盈に臨めば則ちユウ*損を思う
:みちみちている時には、心をおさえておごることがないようにすること。
遇逸楽則思ソン**節 逸楽に遇いては則ちソン**節を思う
:遊びくらすようなことは、ひかえて少なくするように心がけること。
在宴安則思後患 宴安に在っては則ち後患を思う
:宴をはって楽しむときも、後にわずらいや心配があることを考えること。
防壅敝則思延納 壅敝を防ぐには則ち延納を思う
:りっぱなよい帝王といわれるためには、かしこいけらいをもちいて、そのいましめを受け入れること。
疾讒邪則思正己 讒邪を疾むには則ち己を正すを思う
:よこしまで、人をそしるようなことをにくむには、まず自分自身の言動を正しくすること。
行爵賞則思因喜而僣 爵賞を行うには則ち喜によって僣することを思う
:位や賞を与える時には、喜びのあまり、分をこすようなことのないようにすること。
施刑罰則思因怒而濫 刑罰を施すには則ち怒によって濫することを思う
:刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまうことのないようにすること。
*本来の字は「手辺」に「邑」、「ユウ損」=自分の心を抑えへりくだるの意。
**本来の字は「手辺」に「尊の旧字体」、「ソン節」=へりくだるの意
「おやじ」注:どれも、今の為政者(自公政権のおごりのままのアベ政権運営)に突きつけたい教訓です。
「十思スクエア」として生まれ変わった校舎は昭和3年に完成した建物で、それ以前は開校から度重なる火事などの災害により焼失しています。
新しい校舎になってからは、戦火をのがれ平成2年3月に廃校となるまで、多くの卒業生をおくりだしました。廃校後、生徒たちは日本橋小学校に統合され、小学校としての役割を終えた校舎は、日本橋特別出張所仮庁舎として使われた後、平成12年に改修工事を行い「十思スクエア」として生まれ変わりました。
また、この建物は関東大震災後の復興小学校の特徴である公園を隣接しており、この十思公園にはこの地の歴史を伝える史跡があります。江戸時代伝馬牢屋敷がここにあったため、安政の大獄により処刑された吉田松陰関連の碑が並んでいます。これらは以前、十思小学校の校庭にあったものです。また、十思公園には江戸城下に時刻を知らせていた本石町(現、日本橋室町3丁目)の時鐘が移転されています。
(「![]()
」HPより)
小学校として使用されていたころの建物。(「同」HPより)
現在のようす。
旧東京都中央区立十思小学校(現中央区十思スクエア)
◎設計:東京市
◎施工:鴻池組
◎竣工:昭和3(1928)年12月30日
◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建て
◎所在地:東京都中央区小伝馬町5-1
❖東京都選定歴史的建造物
旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域とのつながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。
正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。
半円形の窓、円柱に注目。
円柱を取り入れた外壁(西側)。
曲線にしてある建物の角。
風合いのある側面。
屋上縁のデザインも
凝っている。
独特の校舎の造りとなっていた。
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台東区立坂本小学校とは窓の形こそ異なるが、円柱を用いた外壁はよく似ている構造。

日本橋小伝馬町にある公園。「十思」と言う名前は隣接する廃校になった小学校の名前。今は「十思スクゥエア」という中央区の施設になっている。この小学校は明治11年創立。そのときの住所が「第一大区第一中学区第十四小区」と中国の司馬光の著書「十思之流疏」と掛け合わせた命名だそうです。「十思小学校」は関東大震災後の復興小学校のひとつで、その歴史ある建物を保存しようと区の施設として存続させることになった。公園は、学校と一体型の「震災復興52小公園」の一つ。
旧十思小学校は明治11年に十思学校として開校しました。“十思”という名称は、開校当時の住所であった旧伝馬上町が第一大区第一中学区第十四小区に属する、つまり十四小区の学校であることからと、資治通鑑※1の「十思之疏」※2の十思の語と音が通じるところから「十思小学校」と名づけられました。この「十思之疏」は人の主となる者の守らなければならない大道であって、申し分のない枚処世訓であり、十思小学校の校風にも反映されていていました。
※1資治通鑑(しじつがん):
宗の司馬光の著書。周の威烈王から五代の終わりまで、113主1362年間の歴代君臣の事跡を編年体に編纂した書。治世に利益があって歴代為政者の鑑(かがみ)とするに足る意
※2十思之疏(じっしのそ):
唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十か条を列挙した、天子のわきまえなければならぬ戒め
見可欲則思知足 欲すべきを見れば則ち足るを知ると思う
:欲しいと思ったときでも、足りれば十分であることを知って、いたずらに多くをのぞまないこと。
将興繕則思知止 将に興繕せんとすれば則ち止まるを知ると思う
:工事などを起こすにあたっては、止めるべき程度を知ること。
処高危則思謙降 高危に処すれば則ち謙降を思う
:高い地位にいる人ほど、へりくだるようにしなければいけないこと。
臨満盈則思ユウ*損 満盈に臨めば則ちユウ*損を思う
:みちみちている時には、心をおさえておごることがないようにすること。
遇逸楽則思ソン**節 逸楽に遇いては則ちソン**節を思う
:遊びくらすようなことは、ひかえて少なくするように心がけること。
在宴安則思後患 宴安に在っては則ち後患を思う
:宴をはって楽しむときも、後にわずらいや心配があることを考えること。
防壅敝則思延納 壅敝を防ぐには則ち延納を思う
:りっぱなよい帝王といわれるためには、かしこいけらいをもちいて、そのいましめを受け入れること。
疾讒邪則思正己 讒邪を疾むには則ち己を正すを思う
:よこしまで、人をそしるようなことをにくむには、まず自分自身の言動を正しくすること。
行爵賞則思因喜而僣 爵賞を行うには則ち喜によって僣することを思う
:位や賞を与える時には、喜びのあまり、分をこすようなことのないようにすること。
施刑罰則思因怒而濫 刑罰を施すには則ち怒によって濫することを思う
:刑や罰を行う時には、怒ったあまりに、不適当な刑や罰にしてしまうことのないようにすること。
*本来の字は「手辺」に「邑」、「ユウ損」=自分の心を抑えへりくだるの意。
**本来の字は「手辺」に「尊の旧字体」、「ソン節」=へりくだるの意
「おやじ」注:どれも、今の為政者(自公政権のおごりのままのアベ政権運営)に突きつけたい教訓です。
「十思スクエア」として生まれ変わった校舎は昭和3年に完成した建物で、それ以前は開校から度重なる火事などの災害により焼失しています。
新しい校舎になってからは、戦火をのがれ平成2年3月に廃校となるまで、多くの卒業生をおくりだしました。廃校後、生徒たちは日本橋小学校に統合され、小学校としての役割を終えた校舎は、日本橋特別出張所仮庁舎として使われた後、平成12年に改修工事を行い「十思スクエア」として生まれ変わりました。
また、この建物は関東大震災後の復興小学校の特徴である公園を隣接しており、この十思公園にはこの地の歴史を伝える史跡があります。江戸時代伝馬牢屋敷がここにあったため、安政の大獄により処刑された吉田松陰関連の碑が並んでいます。これらは以前、十思小学校の校庭にあったものです。また、十思公園には江戸城下に時刻を知らせていた本石町(現、日本橋室町3丁目)の時鐘が移転されています。
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旧東京都中央区立十思小学校(現中央区十思スクエア)
◎設計:東京市
◎施工:鴻池組
◎竣工:昭和3(1928)年12月30日
◎構造:鉄筋コンクリート造り3階建て
◎所在地:東京都中央区小伝馬町5-1
❖東京都選定歴史的建造物
旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域とのつながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。
正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。





凝っている。


