2両編成で頭上をけっこう早く走っているので、写真が撮りにくい「モノレール」です。
「道標」。判読は?
右手、道を挟んだ向こうに「千葉競輪場」。壁絵がユニークです。
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「千葉公園」駅付近でモノレールと分かれ、街道は左に曲がっていきます。
右手奥が「千葉公園」。
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「千葉公園」は、かつて鉄道遺跡として紹介。さらに競輪場脇の道から先も含めて、その一部を再掲。(2014/7/04~ 掲載)
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「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。
「つわものどもと学園地域コース」。
「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。
そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。
鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。
この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
現在の広場のようす。
公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。
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「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。
レリーフ。
《千葉公園内の鉄道遺構》
①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。
見上げるほど、かなり大きな遺構。
当時の演習のようす。
西側の高台に残る橋脚。
②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。
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これもかなり大きな遺構。
上部には「鉄道連隊」のマーク。
側面。
内壁。
③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。
橋脚と「綿打池」のほぼ対岸にある。
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「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。
平らで四角い塊も。
ボルト痕。
「千葉公園」を後にして、次に向かいます。
「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。
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ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。千葉公園~競輪場~千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。
昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。
現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。
「千葉けいりん」の脇を直線で進む道が線路跡。
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モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。
「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場横に。
「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」
明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)
現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。
南東の角(建物入口付近)。
この建物の前に残っている当時の線路。
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線路が何カ所か残っていました。
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1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。
軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」付近)に通じていました。
・・・
掲載時期からすでに6年が経ちました。「千葉経済大」校内は、現在どうなっているのでしょうか? 興味あるところです。
同じ頃に「千葉公園」中央にある大きな池(「綿打池」)にある「大賀蓮」を掲載。
「大賀蓮(オオガハス)」は、1951年(昭和26年)、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス「古代ハス」。
検見川総合グランド一帯の発掘調査により、丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれた。
ハスの権威者であった大賀一郎博士が発掘品の中のハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行い、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒のハスの実が発掘された。
大賀博士は3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試み、そのうちの1粒が育ち、翌年、1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせ、「大賀ハス」と命名された。ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。
この「古代ハス」は、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られる。日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
2012年になって、東京大学が、大賀ハスの生育されている施設などの売却を検討している事が判明、これに対し、千葉市民らが、大賀ハスが千葉市の市花となっており、シンボルキャラクターともなっていることなどを考慮し、存続を求めている。
(以上、「Wikipedia」参照)
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ちょうど見頃という感じ。
平日、それも天候が不安定なせいか人の数は少ない。その代わり、じっくり見物できる。
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中央にある大きな池(綿打池)の一部に「大賀蓮」池がある。
「千葉公園マップ」。
・・・
この公園も再訪したいところです。
さて、広くなった街道は、JR「東千葉」駅の跨線橋を渡ります。![]()
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右手、道を挟んだ向こうに「千葉競輪場」。壁絵がユニークです。


「千葉公園」駅付近でモノレールと分かれ、街道は左に曲がっていきます。


「千葉公園」は、かつて鉄道遺跡として紹介。さらに競輪場脇の道から先も含めて、その一部を再掲。(2014/7/04~ 掲載)

「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。
そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。
鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。

この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。

公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。

「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。

《千葉公園内の鉄道遺構》
①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。



②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。





③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。


「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。


「千葉公園」を後にして、次に向かいます。
「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。

ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。千葉公園~競輪場~千葉経済大学。



「千葉けいりん」の脇を直線で進む道が線路跡。


「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場横に。

明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)
現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。






軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」付近)に通じていました。
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掲載時期からすでに6年が経ちました。「千葉経済大」校内は、現在どうなっているのでしょうか? 興味あるところです。
同じ頃に「千葉公園」中央にある大きな池(「綿打池」)にある「大賀蓮」を掲載。
「大賀蓮(オオガハス)」は、1951年(昭和26年)、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス「古代ハス」。
検見川総合グランド一帯の発掘調査により、丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれた。
ハスの権威者であった大賀一郎博士が発掘品の中のハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行い、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒のハスの実が発掘された。
大賀博士は3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試み、そのうちの1粒が育ち、翌年、1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせ、「大賀ハス」と命名された。ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。
この「古代ハス」は、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られる。日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
2012年になって、東京大学が、大賀ハスの生育されている施設などの売却を検討している事が判明、これに対し、千葉市民らが、大賀ハスが千葉市の市花となっており、シンボルキャラクターともなっていることなどを考慮し、存続を求めている。
(以上、「Wikipedia」参照)






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この公園も再訪したいところです。
さて、広くなった街道は、JR「東千葉」駅の跨線橋を渡ります。

