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Channel: おやじのつぶやき
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その5。幕張海水浴場。青木昆陽。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

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                        小休止のあと、再開。このへんのおうちには立派な松が植えられています。

来た道を振り返る。落ち着いた家並み。

 街道は大きな道路にぶつかり、右手の信号機のところを渡って、向こう側に出ます。


                        (かつての)海側を望む。

街道に復帰して振り返る。↓が来た道。

 かつてはスーパーだった「八百石」さん、「志村薬局」さんなどの建物が昔を偲ばせます。


                
                   
                         

 すぐ車の行き来の激しい広い道に出ます。左手(北側)奥には「京成幕張」駅があります。この付近で海沿いの道になります。

この付近の今昔。
(「今昔マップ」より)
国鉄(JR)「幕張」駅。「馬加」という地名。      ↓が街道。○が横断地点付近。

ここで「幕張」の歴史を「Wikipedia」を参照して。
 「幕張」という名前自体の発祥は、定かではない。一説には、真桑瓜(まくわうり)の栽培に適しており、それがゆえんと言うが、「まくわうり」が栽培された記録は残っていない。近世までは馬加(まくはり:旧かな遣い)と表記し、まくわりと読んだ。
 千葉に多くみられる頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地にたちよった、馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になった、または、天幕を張ったので「幕張」になった、などという言い伝えもきかれる。
 12世紀後半、下総国千葉郡武石郷と呼ばれていた。領主は、千葉常胤の三男。武石三郎胤盛であった。その後、次第に開発が進められ、13世紀後半には、約1500軒を数えるまでの集落に発達したようである。・・・
 大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていた。子守神社の旧名も素加天王社といい、大須賀山、須賀原などの地名も見える。
 江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で享保20年(1735年)に青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。このため、天明の大飢饉の際に餓死者は皆無だったようだ。弘化3年(1846年)に村人たちは彼の徳を敬い、昆陽神社を建設した。京成幕張駅の近くには昆陽神社や甘藷試作地記念碑がある。また、京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。また、江戸後期の大相撲で活躍した荒馬大五郎(宮城野馬五郎、二代目宮城野)の出身地であり、その墓が大須賀山にある。
 明治時代になると、千葉郡に編入され馬加、武石、長作、天戸の各村の役場を統一して、馬加に行政を統一した(明治11年)。そして同時期にJRおよび京成電鉄の幕張駅周辺は東京近郊の海水浴場として賑わった。そのため千葉市内にある駅としては幕張駅は千葉駅に続いて設置され、総武線の中でも古い駅の一つになっている。沖合いの埋め立てが始まるまでは幕張駅から数分のところ(国道14号辺り)に砂浜があり、その先に東京湾が広がっていた。そのため、昔は漁業も行われ、のり養殖なども盛んであった。また、首都圏の需要を支える野菜の産地としても栄え、特に砂丘部分の畑で収穫される幕張人参は味がよいことで高い評価を得ていた。
 この先の海浜部分の埋め立てが始まったのは1960年代中頃からである。全体が計画都市として設計され、団地や教育施設、公共施設などが計画的に配置された。また災害時の場合を考慮して道路が広く取られていることも特徴である。これとほぼ時を同じくして、人参畑やサツマイモ畑が広がっていた花見川区の総武線沿線でも風景が変わり始め、ベッドタウン化が始まった。埋立地では1970年代から住民の入居が始まったものの、予定されていた鉄道の開業が遅れ、1986年にようやく千葉港駅(現:千葉みなと駅)-西船橋駅間で京葉線が部分開通した。その後1989年には東京モーターショーが東京都中央区晴海から幕張メッセに移り、1993年には地域のランドマークとなるホテルも開業し、新都心への飛躍を果たした。
 一方、JR幕張駅周辺は1980年代ごろ、再開発計画がJR海浜幕張駅周辺の都市計画と同時に持ち上がり、幕張メッセへの総武線側の玄関としての構想が練られ、実際に一部自治体による土地買収も実施されたが、駅周辺や商店街の一部の商業者の賛同を得られず、計画は白紙撤回された。代わりに幕張本郷駅がその役目を担うことになった。

《青木昆陽(あおき こんよう)》元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日)
 江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。
 江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。
昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。
・・・
(以上「Wikipedia」参照)

「幕張海岸潮干狩り 海水浴場入口」(「千葉県公式観光物産サイト」HPより)


1880年代のようす。遠浅の海が広がる。


2010年代のようす。旧道の道筋は市街地の中に。

しばらく進み、左側の道へ(「検見川神社」方向)。「花見川」に架かる「新花見川橋」を渡ります。


                    京成線の橋脚。

 「花見川」の上流は「佐倉街道」歩きのときに通過しています(「大和田機場」付近)。以下はそのときのブログ資料。

 

                 

(この図は「」HPより)

注:旧道に架かる橋名に「新」が付くのは? 下流の橋名は「幕張橋」。



              
 「検見川神社南側」交差点を右折。左手、京成線の向こうには「検見川神社」。街道筋らしい家並みが続く。


1880年代のようす。漁業だけでなく、砂丘ではニンジン、サツマイモなどの栽培が盛んだったようです。○が右折地点。


2010年代のようす。すっかり市街地化している。

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