相変わらず小雨。「大和田」付近。

屋根はかつては茅葺屋根だったようで、街道を歩いていると、たまに見かける屋根の格好をしています。
(10:25)「庚塚」バス停。


社の中に「道祖神」。
「市役所(八千代市)入口」交差点を過ぎた左手に「さわ田茶家」。


さわ田茶家の建物は、戦後初代首相東久邇稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)殿下が、昭和初期に別邸として市川真間に建立したものを、縁あって当家が譲り受け、一九六四年(昭和三九年)当地に移築し、住居として現在に至りました。
気品ある重厚な入母屋造りと錦鯉が泳ぐ池を配した庭園づくりは、往時の日本人の心の豊かさを今に伝えます。
一階は、黒光りの大黒柱と漆喰いの土壁、天井の太い梁、正目の板張りと回廊。
二階は、書院造りの床の間と粋な欄間、移りゆく季節を伝える掛け軸と潤いの生け花。やわらかい日差しが差し込む障子と青畳。
いずれも今は私達が忘れかけている日本人の旧き良き伝統文化の生活空間が、そこにあります。
心和む至福のひとときをどうぞゆっくりとお過ごしください。

(この項、「

入口に「無縁法界供養塔」。

無縁法界
① 仏語。法界の一切。無差別平等の一切をこめていった言葉。
② 縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者。
その先、左手にある「長妙寺」に八百屋お七の墓があるようですが、門扉が閉まっていて省略。


(10:35)「大和田三叉路」信号の手前左手に、大きな「明治天皇行在之処碑」があります。

街道筋らしいおうち。

宿場特有の間口が狭く、奥行きのあるおうち。


古びた道標?

下り坂になって、「新川」に向かいます。

(10:45)その途中、左手の高台に「時平神社」。

この付近には、同名の神社が4つあるようです。
時平神社四社(ときひらじんじゃよんしゃ)は、千葉県八千代市にある四つの時平神社の総称である。下総三山の七年祭りにもかかわりが深い。御祭神はいずれも左大臣藤原時平。
平安時代初期、時平は若くして左大臣まで登り栄達するが、菅原道真を太宰府に左遷させた張本人とされる。道真が左遷先で亡くなる、ほとんど直後というタイミングで、自身も39歳の若さで死去。
その死は当然のことながら道真の祟りと囁かれた。ある意味では、日本における天神信仰の確立を担ったことになる。
四社ともいずれも由緒や情報に乏しく、なぜこの地域に四社もの時平神社が集中しているのか不明。特に、大和田は慶長15年(1610年)に、萱田町は元和元年(1615年)に、それぞれ江戸初期に相次いで創建している。
当地域には、時平はじめ親族が次々と亡くなってしまう状況に対して悲観した、時平の妻子や一族が当地に移り住み、特に時平の娘である高津姫の伝承が残されている。それが同市内に鎮座する高津比咩神社につながる。
当地域はまた、菊田神社に代表されるように、平安時代末期に流罪となった藤原師経・藤原師長の上陸地にも近く、当地で祖先の時平を奉斎したとも伝わり、時平に対する信仰はもともと厚い地域柄ではある。
しかしそうだとしても、おそらく最も古いと思われる、四社のうち二社の創建がなぜ江戸初期なのか。
祟りに倒れた時平が更なる怨霊になることを恐れて、時平への信仰が厚くなることは想像はできる。
道真の天神信仰が盛んになり始めた江戸初期に、「いやいや、うちのご先祖様も……」ということで、菊田神社や二宮神社から御分霊を勧請したのかもしれない。
なお、この地域の近くには、道真を恐れて、天神・天満宮はないとされる。
(この項、「時平神社四社とは? - 神社と古事記」www.buccyake-kojiki.com/archives/1050738231.html HPより)



「新川」「花見川」は印旛沼の排水路。「大和田排水機場」から上流を「新川」下流を「花見川」と称しています。地形的に複雑なのは、「新川」(=「印旛沼」)の方が「花見川」(=「東京湾」)よりも低地だということ。そこに「大和田排水機場」の役割があるようです。
印旛沼
およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈降により溺れ谷となり香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取海の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。
江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫による水害から守るため行われた利根川東遷事業によって利根川の下流となり、周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになった。このため沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が行われた。
享保9年(1724年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
江戸後期には老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図され、幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)には勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。
この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりもあった。つまり、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設である。印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
1969年(昭和44年)、水資源公団の開発により、沼中央部に面積 13.9 km2 の中央干拓地が造成され、約26 km2 あった沼の面積は2分の1以下に縮小している。
(以上、「Wikipedia」参照)


(この図は「
