(9:37)上り詰めると「二宮本宿」交差点。
宿場の面影はなさそうです。![]()
「あきる野市」のマンホールの絵柄。多摩川と大岳山。![]()
土蔵造り風の建物がいくつか。
「二宮神社」交差点を西に進みます。![]()
「二宮神社」への道。
切り通しになっている坂を上っていくと、その先には広々とした畑地が広がります。歩くのもゆったりと風景を愛でながら。
「秋留台」。中央に「大岳山」。
南側には「富士山」が顔をのぞかせています(↓)。![]()
(9:52)「秋川ファーマーズセンター」。朝から忙しく人が出入りしています。
地元農家の育てた安全・安心な採れたて野菜が並びます。年間を通してトマト、春はのらぼう菜、初夏はトウモロコシ、夏はショウガが有名です。
手作りパン・ジャム等の加工品も人気の商品です。
東京都産黒毛和牛「秋川牛」の精肉を販売しています。秋川牛はあきる野市の竹内牧場が飼育する都産唯一の黒毛和牛で、同市松村精肉店が立ち上げたブランドです。
ブランド鶏「東京しゃも」と「秋川牛」の冷凍肉を販売しています。
管内酪農家を含む多摩地区の酪農家から集乳した生乳を、日の出町にある 協同乳業(株)東京工場で殺菌パックした「東京牛乳」を販売しています。
雨の日でも安心、屋内バーベキュー場(予約制)
・・・
(この項、「秋川農業協同組合」HPより)
ここに登場する「東京牛乳」は我が家でもなじみのある牛乳。濃厚でおいしい。![]()
ところで、東京での酪農は? (「東京牛乳」HPより)
![]()
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
明治32年には東京で3,000頭以上の乳牛を飼育
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
※地産地消=地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物を地域で消費しようとする活動を通じて、農業者と消費者を結びつける取り組み。
東京牛乳は東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳です。
製造工場 協同乳業㈱東京工場(東京都西多摩郡日の出町平井20-1)
そういえばJR錦糸町駅前にも伊藤左千夫が経営する牧場があって、牛乳を生産して、近所の「汽車工場」に配達していたとか。
(「東京都墨田区の歴史」HPより)
左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる(明治33年作)
この歌は、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して詠んだ代表作。年下ではあったが子規という偉大な師を得て、短歌の世界に生き甲斐を見いだした左千夫の気迫が感じられます。
・竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり
「錦糸町駅」南口にある「文学碑」。![]()
よき日には 庭にゆさぶり 雨の日には 家とよもして 児等が遊ぶも
注:「とよもす」=音を響かせる、の意。「どよもす」とも。
左右に畑地が広がります。冬の風景。![]()
「秋留台公園。」冬の日ざしを浴びてスポーツにいそしむ姿が。![]()
市街地に近づいてきます。白い壁に映る冬枯れの樹木。![]()
(10:10)「あきる野市役所」。![]()
その先に「大塚古墳」。方墳のようです。そこで、小休止。
塚の頂上に稲荷神社。
![]()
しばらく進むと、JR五日市線「秋川」駅。![]()
駅前のコンビニに寄って買い物を。「五日市線」の踏切を渡り、続いて「圏央道」をくぐります(10:37)。
![]()
この先、右に左に旧道らしき道が何カ所か出てきます。
ここを左折。
![]()
現五日市街道に合流して渡って次の短い旧道へ。![]()
![]()
周囲には里山風景が広がってきます。![]()
宿場の面影はなさそうです。

「あきる野市」のマンホールの絵柄。多摩川と大岳山。


「二宮神社」交差点を西に進みます。


切り通しになっている坂を上っていくと、その先には広々とした畑地が広がります。歩くのもゆったりと風景を愛でながら。

南側には「富士山」が顔をのぞかせています(↓)。


地元農家の育てた安全・安心な採れたて野菜が並びます。年間を通してトマト、春はのらぼう菜、初夏はトウモロコシ、夏はショウガが有名です。
手作りパン・ジャム等の加工品も人気の商品です。
東京都産黒毛和牛「秋川牛」の精肉を販売しています。秋川牛はあきる野市の竹内牧場が飼育する都産唯一の黒毛和牛で、同市松村精肉店が立ち上げたブランドです。
ブランド鶏「東京しゃも」と「秋川牛」の冷凍肉を販売しています。
管内酪農家を含む多摩地区の酪農家から集乳した生乳を、日の出町にある 協同乳業(株)東京工場で殺菌パックした「東京牛乳」を販売しています。
雨の日でも安心、屋内バーベキュー場(予約制)
・・・
(この項、「秋川農業協同組合」HPより)
ここに登場する「東京牛乳」は我が家でもなじみのある牛乳。濃厚でおいしい。

ところで、東京での酪農は? (「東京牛乳」HPより)

初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
明治32年には東京で3,000頭以上の乳牛を飼育
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
※地産地消=地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物を地域で消費しようとする活動を通じて、農業者と消費者を結びつける取り組み。
東京牛乳は東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳です。
製造工場 協同乳業㈱東京工場(東京都西多摩郡日の出町平井20-1)
そういえばJR錦糸町駅前にも伊藤左千夫が経営する牧場があって、牛乳を生産して、近所の「汽車工場」に配達していたとか。

左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる(明治33年作)
この歌は、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して詠んだ代表作。年下ではあったが子規という偉大な師を得て、短歌の世界に生き甲斐を見いだした左千夫の気迫が感じられます。
・竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり
「錦糸町駅」南口にある「文学碑」。

よき日には 庭にゆさぶり 雨の日には 家とよもして 児等が遊ぶも
注:「とよもす」=音を響かせる、の意。「どよもす」とも。
左右に畑地が広がります。冬の風景。

「秋留台公園。」冬の日ざしを浴びてスポーツにいそしむ姿が。

市街地に近づいてきます。白い壁に映る冬枯れの樹木。

(10:10)「あきる野市役所」。

その先に「大塚古墳」。方墳のようです。そこで、小休止。


しばらく進むと、JR五日市線「秋川」駅。

駅前のコンビニに寄って買い物を。「五日市線」の踏切を渡り、続いて「圏央道」をくぐります(10:37)。

この先、右に左に旧道らしき道が何カ所か出てきます。



現五日市街道に合流して渡って次の短い旧道へ。


周囲には里山風景が広がってきます。
