(8:23)「日光千人同心街道」。
11月15日(木)快晴。好天に誘われて出かけます。
「高萩」交差点を左折、川越線のガードをくぐります。![]()
すぐ右手に真新しい「金毘羅大権現」碑と常夜燈。![]()
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先達の記録では石碑が倒れていたり、常夜燈が傾いている、という話でしたが、昨年・平成29年6月に「金比羅宮碑等再建並びに整備委員会」の手で再建されました。
国道407号の旧道沿い、かつて宿場町だった日高市高萩地内に、清水次郎長も一目置いた侠客の清水喜右衛門こと「高萩の万次郎」(1805~1885年)が願主となり慶応2年(1866年)に建立された「金毘羅大権現碑」がある。大正12年(1923年)の関東大震災に始まり、平成16年の新潟中越地震、そして同23年の東日本大震災の影響を受け壊れたままになっていたことから、住民有志が立ち上げた「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」(関孝夫委員長)が地域に協力を呼びかけて碑を再建した。碑をはじめ外柵の新調、往時の高萩宿の様子を示す歴史解説板の設置なども行われ、28日には委員会のメンバーが集まり魂入式が挙行される。
同委員会によると、高萩を南北に貫く道は江戸時代、「日光千人同心街道」と呼ばれ、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため八王子から日光へ向かうルートとして利用された。高萩宿は八王子から6番目の宿場として、人馬を交代して荷物を運ぶための継立(つぎたて)の役割を担っていた。
参勤交代で大名が利用する街道ではなかったため、本陣・脇本陣はなく「旅籠(はたご)」が数軒、また、宿場の最高責任者の「問屋」が2軒あり交代で役職を務め、それを補佐する「年寄」がおり、人馬の継立業務を担っていた。
清水喜右衛門こと高萩の万次郎は、「鶴屋」を屋号とする十手持ちで、高萩宿で宿役人の年寄を務めていた。近隣の村民を集めて地元負担で荷物を運ばせる「助郷(すけごう)」の命令書が中山道熊谷宿から届いた際には、問屋とともに熊谷宿へ赴き助郷免除を嘆願、慶応2年(1886年)に起きた武州一揆の際は宿はずれで一揆衆に酒や食事を振る舞い、高萩宿での打ちこわしを回避させた。
喜右衛門は侠客としても有名で近隣の侠客から一目置かれ、清水次郎長とも親交があり、若かりし次郎長を匿ったことが縁となり、その縁は喜右衛門の晩年まで続いた。
金毘羅大権現碑は、その喜右衛門が願主となって建立。以来毎年祈願が続けられ、「祈願無事永続」として明治15年には鶴屋で「金比羅講」が催された。この時、日高、飯能をはじめ県内や東京、山梨、静岡から延べ78人の有力者が世話人として名を連ね、その中には山本長五郎(清水次郎長)、宮﨑文吉(津向文吉)、宮下仙右衛門(枡川仙右衛門)など講談や小説に登場する面々の名もあった。
碑の文字は「異体字」で記されている。傍らに建つ石尊大権現御神燈に刻まれた「高萩驛下宿」の文字は、この地に高萩宿が存在したことを示す唯一の証。馬で人や物を運ぶ中継地の「駅」としての役割を持っていたことを示している。
・・・
折れたままになっていた碑は、平成23年3月の東日本大震災で、さらに残っていた下半分もほぼ根元から折れてしまった。・・・
「後世に高萩宿の歴史を伝えるためにも、碑を建て直したい」。再建の話が再び浮上したのは昨年8月。
「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」を立ち上げた。高萩宿の歴史の解説や後世にその歴史を伝えたい思いを盛り込んだ趣意書を作成し、碑の再建とともに、風化著しい外柵の新調、石尊大権現御神燈の改修、高萩宿の歴史解説板の設置のため地域住民に寄付を募ったところ、約半年の間に目標額を上回る寄付が寄せられた。
今年5月から工事を始め、無事完成を迎えることに。28日には同委員会のメンバーが集まり魂入式を行う。
委員長を務める関孝夫さん(62)は、「高萩に宿場があったことを知らない人も増え、後世に高萩宿の歴史を残したいとの思いで再建の話が持ち上がった。実現できないのではないかとの不安もあったが、地域の方々のご協力により目標を上回るご寄付を賜り再建を行うことができた。心より感謝したい」と話している。
(以上、「
」HPより)
解説板。![]()
「高萩宿の歴史」 「清水喜右衛門(清水万次郎 高萩の万次郎)と金毘羅大権現」
その対面のおうちは「旅籠亀屋」跡ということですが。
かつての宿場町という雰囲気はありません。
昔を偲ぶ唯一の建物ともいえるのが、元「日高郵便局」。![]()
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明治12(1879)年築。通信業務の中心として活躍した木造平屋の下見板張りの建物。
お隣の見事な板塀のあるおうちが旧家の「犬竹」家。土蔵造りの二階には閑院宮をはじめ山岡鉄舟などの著名人が宿泊している、とのこと。
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ところで、沿道に「犬竹」の名の家が目に付きます。それも大きな立派なおうち。ちょっと珍しい姓。
【名字】犬竹
【読み】いぬたけ
【全国順位】 10,750位
【全国人数】 およそ650人
【名字の由来解説】
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国巨摩郡犬竹村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)季衡流北条氏族。近年、埼玉県日高市などに多数みられる。「竹」は植物の竹を表す。
(この項、「
」HPより)
ついでに調べると、我が父方の姓は、
【全国順位】 18,366位
【全国人数】 およそ270人
だそうなので、もっと珍しいということに。
この先、道路の拡張整備、住宅地区画整理などで旧道は失われています。現在の道路の西側に旧道はあったようです。
交差点の西方向。
平日の午前中。幹線道路としてお店も多く、車の行き来が激しい。![]()
「高萩宿」方向を振り返る。
(8:45)まもなく「日光街道杉並木」に入ります。![]()
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車道の左側に「遊歩道」があります。木陰の中の歩き。![]()
切り株や伐採された杉がけっこう目立ちます。
スギの他にマツ、カエデ、サクラなどが植えられています。これはサザンカ。![]()
目を楽しませてくれます。
しばらく進むと「日光街道杉並木碑」があります。![]()
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日光街道並木保全の記
小田原の北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設された、この道路は当時軍用道路として重要な使命をもったものである。勿論その頃は野中の一本道で高萩村から鶴ヶ島村を通過、坂戸町まで5.3㎞と続いていたので、この街道を旅する人達は暑さにつけ寒さにつけその難儀の様は言語を絶するものがあったと思われる。
時は流れ徳川三代家光の代に入って懸案の日光東照宮を完了したのでその警備に八王子千人同心を起用することとなり警備の人々の往来した道としてこのあたりから日光街道と呼ばれるようになった。伝承によると江戸期は忍城主松平伊豆守が松は相模国、杉は武蔵国御嶽山、櫟は上野国赤城山から苗木を取り寄せて植樹したものと云われて樹齢は300年、日光の杉並木と並ぶ歴史的名所となっているが、代の移ろいに従って寿命による枯樹木や台風その他の気象条件或いは交通事情の影響によって植栽当時の樹木も減少の一途を辿り前途を想えば消滅をさえ感じさせられる経緯を示して来たので昭和55年11月高萩地区同志相諮り日光街道並木保存会を結成、会員を募り徹底した奉仕活動を展開、理解ある多くの会員と共々これを持続、杉苗600本を南北並木に植樹し先人の意図を継承する礎が出来たのである。茲に5周年を迎えるに当り碑を建てて由来を記すものである。
(9:04)「鶴ヶ島市」に入ります。![]()
左手は車道ですが、右手はこうした雑木林も。![]()
埼玉県が立てた「日光街道杉並木」の解説板。![]()
日光街道杉並木
この街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番を交代で勤めるために往来した道で、日光街道と呼ばれている。
この街道は、千人同心隊だけではなく、上州や信州から東海道へ出る近道として、また、相州や甲州から上州へ旅する人達の主要道路として盛んに利用された。
並木は、鶴ヶ島町、川越市、日高町にまたがって、5.3㎞と長く続いている。樹の種類は、杉と松が主で、桧、櫟、楢、そろなどが混じっている。・・・
今や日光の杉並木と並ぶこの並木は、町を代表する歴史的な名所となっているが、昭和3年に5,571本もあった並木も、今では1,118本に減ってしまった。現在、地元を中心にその保存に努めているところである。
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11月15日(木)快晴。好天に誘われて出かけます。
「高萩」交差点を左折、川越線のガードをくぐります。

すぐ右手に真新しい「金毘羅大権現」碑と常夜燈。


先達の記録では石碑が倒れていたり、常夜燈が傾いている、という話でしたが、昨年・平成29年6月に「金比羅宮碑等再建並びに整備委員会」の手で再建されました。
国道407号の旧道沿い、かつて宿場町だった日高市高萩地内に、清水次郎長も一目置いた侠客の清水喜右衛門こと「高萩の万次郎」(1805~1885年)が願主となり慶応2年(1866年)に建立された「金毘羅大権現碑」がある。大正12年(1923年)の関東大震災に始まり、平成16年の新潟中越地震、そして同23年の東日本大震災の影響を受け壊れたままになっていたことから、住民有志が立ち上げた「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」(関孝夫委員長)が地域に協力を呼びかけて碑を再建した。碑をはじめ外柵の新調、往時の高萩宿の様子を示す歴史解説板の設置なども行われ、28日には委員会のメンバーが集まり魂入式が挙行される。
同委員会によると、高萩を南北に貫く道は江戸時代、「日光千人同心街道」と呼ばれ、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため八王子から日光へ向かうルートとして利用された。高萩宿は八王子から6番目の宿場として、人馬を交代して荷物を運ぶための継立(つぎたて)の役割を担っていた。
参勤交代で大名が利用する街道ではなかったため、本陣・脇本陣はなく「旅籠(はたご)」が数軒、また、宿場の最高責任者の「問屋」が2軒あり交代で役職を務め、それを補佐する「年寄」がおり、人馬の継立業務を担っていた。
清水喜右衛門こと高萩の万次郎は、「鶴屋」を屋号とする十手持ちで、高萩宿で宿役人の年寄を務めていた。近隣の村民を集めて地元負担で荷物を運ばせる「助郷(すけごう)」の命令書が中山道熊谷宿から届いた際には、問屋とともに熊谷宿へ赴き助郷免除を嘆願、慶応2年(1886年)に起きた武州一揆の際は宿はずれで一揆衆に酒や食事を振る舞い、高萩宿での打ちこわしを回避させた。
喜右衛門は侠客としても有名で近隣の侠客から一目置かれ、清水次郎長とも親交があり、若かりし次郎長を匿ったことが縁となり、その縁は喜右衛門の晩年まで続いた。
金毘羅大権現碑は、その喜右衛門が願主となって建立。以来毎年祈願が続けられ、「祈願無事永続」として明治15年には鶴屋で「金比羅講」が催された。この時、日高、飯能をはじめ県内や東京、山梨、静岡から延べ78人の有力者が世話人として名を連ね、その中には山本長五郎(清水次郎長)、宮﨑文吉(津向文吉)、宮下仙右衛門(枡川仙右衛門)など講談や小説に登場する面々の名もあった。
碑の文字は「異体字」で記されている。傍らに建つ石尊大権現御神燈に刻まれた「高萩驛下宿」の文字は、この地に高萩宿が存在したことを示す唯一の証。馬で人や物を運ぶ中継地の「駅」としての役割を持っていたことを示している。
・・・
折れたままになっていた碑は、平成23年3月の東日本大震災で、さらに残っていた下半分もほぼ根元から折れてしまった。・・・
「後世に高萩宿の歴史を伝えるためにも、碑を建て直したい」。再建の話が再び浮上したのは昨年8月。
「金毘羅大権碑等再建並びに整備委員会」を立ち上げた。高萩宿の歴史の解説や後世にその歴史を伝えたい思いを盛り込んだ趣意書を作成し、碑の再建とともに、風化著しい外柵の新調、石尊大権現御神燈の改修、高萩宿の歴史解説板の設置のため地域住民に寄付を募ったところ、約半年の間に目標額を上回る寄付が寄せられた。
今年5月から工事を始め、無事完成を迎えることに。28日には同委員会のメンバーが集まり魂入式を行う。
委員長を務める関孝夫さん(62)は、「高萩に宿場があったことを知らない人も増え、後世に高萩宿の歴史を残したいとの思いで再建の話が持ち上がった。実現できないのではないかとの不安もあったが、地域の方々のご協力により目標を上回るご寄付を賜り再建を行うことができた。心より感謝したい」と話している。
(以上、「

解説板。

「高萩宿の歴史」 「清水喜右衛門(清水万次郎 高萩の万次郎)と金毘羅大権現」
その対面のおうちは「旅籠亀屋」跡ということですが。


昔を偲ぶ唯一の建物ともいえるのが、元「日高郵便局」。


明治12(1879)年築。通信業務の中心として活躍した木造平屋の下見板張りの建物。
お隣の見事な板塀のあるおうちが旧家の「犬竹」家。土蔵造りの二階には閑院宮をはじめ山岡鉄舟などの著名人が宿泊している、とのこと。

ところで、沿道に「犬竹」の名の家が目に付きます。それも大きな立派なおうち。ちょっと珍しい姓。
【名字】犬竹
【読み】いぬたけ
【全国順位】 10,750位
【全国人数】 およそ650人
【名字の由来解説】
現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国巨摩郡犬竹村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)季衡流北条氏族。近年、埼玉県日高市などに多数みられる。「竹」は植物の竹を表す。
(この項、「

ついでに調べると、我が父方の姓は、
【全国順位】 18,366位
【全国人数】 およそ270人
だそうなので、もっと珍しいということに。
この先、道路の拡張整備、住宅地区画整理などで旧道は失われています。現在の道路の西側に旧道はあったようです。

平日の午前中。幹線道路としてお店も多く、車の行き来が激しい。


(8:45)まもなく「日光街道杉並木」に入ります。


車道の左側に「遊歩道」があります。木陰の中の歩き。


スギの他にマツ、カエデ、サクラなどが植えられています。これはサザンカ。

目を楽しませてくれます。
しばらく進むと「日光街道杉並木碑」があります。


日光街道並木保全の記
小田原の北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設された、この道路は当時軍用道路として重要な使命をもったものである。勿論その頃は野中の一本道で高萩村から鶴ヶ島村を通過、坂戸町まで5.3㎞と続いていたので、この街道を旅する人達は暑さにつけ寒さにつけその難儀の様は言語を絶するものがあったと思われる。
時は流れ徳川三代家光の代に入って懸案の日光東照宮を完了したのでその警備に八王子千人同心を起用することとなり警備の人々の往来した道としてこのあたりから日光街道と呼ばれるようになった。伝承によると江戸期は忍城主松平伊豆守が松は相模国、杉は武蔵国御嶽山、櫟は上野国赤城山から苗木を取り寄せて植樹したものと云われて樹齢は300年、日光の杉並木と並ぶ歴史的名所となっているが、代の移ろいに従って寿命による枯樹木や台風その他の気象条件或いは交通事情の影響によって植栽当時の樹木も減少の一途を辿り前途を想えば消滅をさえ感じさせられる経緯を示して来たので昭和55年11月高萩地区同志相諮り日光街道並木保存会を結成、会員を募り徹底した奉仕活動を展開、理解ある多くの会員と共々これを持続、杉苗600本を南北並木に植樹し先人の意図を継承する礎が出来たのである。茲に5周年を迎えるに当り碑を建てて由来を記すものである。
(9:04)「鶴ヶ島市」に入ります。

左手は車道ですが、右手はこうした雑木林も。

埼玉県が立てた「日光街道杉並木」の解説板。

日光街道杉並木
この街道は、江戸時代に八王子千人同心が日光東照宮の火の番を交代で勤めるために往来した道で、日光街道と呼ばれている。
この街道は、千人同心隊だけではなく、上州や信州から東海道へ出る近道として、また、相州や甲州から上州へ旅する人達の主要道路として盛んに利用された。
並木は、鶴ヶ島町、川越市、日高町にまたがって、5.3㎞と長く続いている。樹の種類は、杉と松が主で、桧、櫟、楢、そろなどが混じっている。・・・
今や日光の杉並木と並ぶこの並木は、町を代表する歴史的な名所となっているが、昭和3年に5,571本もあった並木も、今では1,118本に減ってしまった。現在、地元を中心にその保存に努めているところである。


