(10:55)府中街道との分岐。
(11:01)「西武国分寺線」。
ここにも土蔵造りの建物が目立つ。農家の趣。
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(11:08)「中宿」バス停。
大きな家が目立つ。
小平市のマンホール。絵柄はタワー以外?![]()
「小平農家農産物直売所」があちこちに。![]()
(11:18)小川村を開いた小川九郎兵衛が開基となった「小川寺(しょうせんじ)」。
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明暦2年(1656)小川九郎兵衛が小川村の開発を始めたとき、江戸市ヶ谷河田町(現新宿区)の月桂寺住職、雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院。・・・
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「八雲せせらぎ水辺」。
小平周辺には農業用水路が張りめぐらされ、今は、こうしたせせらぎ公園・遊歩道風になっています。
(11:22)「小川上宿」。三叉路。右に進む。
見事な垣根(市の保存対象)。![]()
ケヤキ並木。
「小川用水」。![]()
周囲にマンションなどの多い中で、広い敷地のおうち。
(11:37)西武拝島線「東大和市駅」に近づきます。![]()
「←玉川上水放流口 野火止用水放流口→」。
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小平市と東大和市の境には「野火止用水」が流れていて、それを渡る青梅街道には青梅橋が架けられていました。現在、この付近は遊歩道になっています。
青梅橋はなくなりましたが、橋の親柱が移設保存されており、「あをめはし」と彫られています。
青梅橋
承応4年(1655)、玉川上水から分水された野火止用水を青梅街道が横断するために架けられました。両岸を石組みで固めた幅約2.5㍍、長さ約4㍍の木造の橋でしたが、昭和になってコンクリート製に架け替えられました。
架橋から300年余りの後の昭和38年(1963)5月の東村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水路を利用した暗渠となったため、橋は取り壊され、青梅橋の名のみ残りました。
往時、この橋から丸山台まで、4㌔にわたって幅約20㍍の道の中央に一列に植えられた千本桜と呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊の人々の花見で賑わったといわれます。
野火止用水の歴史
野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。
(以上
HPより)
「東大和市駅」の駅前広場を横切り、旧道の続きを行きます。かつては青梅橋から先約4kmにわたって桜並木があり千本桜と呼ばれていたといいます。現在はその桜は失われ、新しく街路樹として桜が植えられています。 東大和市ではこの街道を「桜街道」と呼んでいて、約1.8km先の「多摩モノレール」の駅も「桜街道駅」と名付けられています。
「東大和市案内図」。
↓が「青梅街道」、○が「桜街道」。
(11:42)駅前。大きなスケートリンクが。![]()
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(写真は
HPより)
(11:49)「桜街道」へ。![]()
この付近の今昔。
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1880年代のようす。○の下方に「青梅橋」、斜めの流れが「野火止用水」。↓が旧「青梅街道(現桜街道)」。
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2010年代のようす。
(11:01)「西武国分寺線」。


ここにも土蔵造りの建物が目立つ。農家の趣。




小平市のマンホール。絵柄はタワー以外?

「小平農家農産物直売所」があちこちに。

(11:18)小川村を開いた小川九郎兵衛が開基となった「小川寺(しょうせんじ)」。


明暦2年(1656)小川九郎兵衛が小川村の開発を始めたとき、江戸市ヶ谷河田町(現新宿区)の月桂寺住職、雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院。・・・


「八雲せせらぎ水辺」。
小平周辺には農業用水路が張りめぐらされ、今は、こうしたせせらぎ公園・遊歩道風になっています。

見事な垣根(市の保存対象)。


「小川用水」。


(11:37)西武拝島線「東大和市駅」に近づきます。




小平市と東大和市の境には「野火止用水」が流れていて、それを渡る青梅街道には青梅橋が架けられていました。現在、この付近は遊歩道になっています。
青梅橋はなくなりましたが、橋の親柱が移設保存されており、「あをめはし」と彫られています。
青梅橋
承応4年(1655)、玉川上水から分水された野火止用水を青梅街道が横断するために架けられました。両岸を石組みで固めた幅約2.5㍍、長さ約4㍍の木造の橋でしたが、昭和になってコンクリート製に架け替えられました。
架橋から300年余りの後の昭和38年(1963)5月の東村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水路を利用した暗渠となったため、橋は取り壊され、青梅橋の名のみ残りました。
往時、この橋から丸山台まで、4㌔にわたって幅約20㍍の道の中央に一列に植えられた千本桜と呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊の人々の花見で賑わったといわれます。
野火止用水の歴史
野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。
(以上

「東大和市駅」の駅前広場を横切り、旧道の続きを行きます。かつては青梅橋から先約4kmにわたって桜並木があり千本桜と呼ばれていたといいます。現在はその桜は失われ、新しく街路樹として桜が植えられています。 東大和市ではこの街道を「桜街道」と呼んでいて、約1.8km先の「多摩モノレール」の駅も「桜街道駅」と名付けられています。

↓が「青梅街道」、○が「桜街道」。
(11:42)駅前。大きなスケートリンクが。


(写真は

(11:49)「桜街道」へ。

この付近の今昔。




1880年代のようす。○の下方に「青梅橋」、斜めの流れが「野火止用水」。↓が旧「青梅街道(現桜街道)」。




2010年代のようす。