ほとんど宿場時代の痕跡はありません。また温泉が発掘されて一躍、熱海級の一大温泉遊興地になりましたが、現在はちょっと当時の勢いはなさそうです。
「芸妓置屋 青砥家」。
旧甲州街道はそうした温泉街からも少し離れているせいか、静かなたたずまいの街並みの中を進みます。
石和宿
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒。
石和は武田氏の故地。新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、以降武田と名乗った。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
1961(昭和36)年1月、石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した。
石和とは大小の多くの川が流れる荒地で藺(い)が一面に生い茂っていたので藺の沢と呼ばれ、その後転化し石和となった。
街中に入ってすぐ右手にあるお寺が「鵜飼山遠妙寺(うかいざんおんみょうじ)」。
当山は、往昔文永11年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である。
之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又、謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである。
(11:06)その先、高速バス停前に「石和本陣跡」碑。
石和本陣跡
本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。
石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。
土蔵。
解説板。![]()
宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。
以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。
一画に古い建物。![]()
そこから通りを望む。![]()
広い道路の反対側に「足湯」がありました。そこで、素足を温めながら、小休止(11:11~11:23))。他には誰もいません。通りかかる人もほとんどなし。
足湯の裏手には緑も濃い「石和小林公園」が広がっています。
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この公園は、元々、郷土の偉人、小林中氏の家の跡で、その功績が説明板にあります。
大正11年早稲田大学を中退し、家業の石和銀行取締役支配人に就任。その後、30歳のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長となり、52歳の時に日本開発銀行初代総裁となった。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った、とのこと。
消防署。
「石和温泉駅入口交差点」を過ぎたところで、DoCoMoのお店。炎天下、人通りもない中で、着ぐるみで頑張っています。DoCoMoつながりでパチリ。
お疲れさん!
(11:32)右にカーブし、甲運橋東詰交差点を経て、「甲府市」入り。![]()
右手の大きな古木の脇に道標、石像。![]()
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萬延元年(1860)建立の道標。3面にそれぞれ「左甲府 甲運橋 身延」、「右富士山 大山」、「左三峯山 大嶽山」と書かれています。が、「富士山 大山」の下に「東京」と刻まれています。江戸時代に東京などあるはずがなく、明治以降、元々「江戸」とあったものをその上から「東京」と刻み直したようです。余計なお節介なのか、はたまた?
また、このところが「一里塚」跡のような印象ですが。
「平等川」上流。かつての笛吹川。
(11:50)さてそろそろ昼食時。さらに炎天下、少し早めですが、涼しいところに入ろうか、と。
「アリア入口」交差点のところに「台湾料理 昇龍」さん。このお店へ。ビール(中ジョッキ)と二品選んで980円(税抜き)とあるので、さっそく注文。二品ともまるで大盛り、一人では食べききれないほどで、美味しい。お腹いっぱいになりました。もう炎天下歩きはやめようか、というくらい。たっぷり食事休憩。
(12:30)「県立青少年センター」。
しばらく進み、「甲運小学校入口」バス停のところに「和戸町」の解説碑と古仏などが。
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和戸町(由来)
和戸町は平安期この附近を中心として栄えた表門郷(うわどのごう)の遺称である。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が存在したことが知られる。地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。
崩れてしまった、丸石を積み重ねた道祖神。![]()
「甲運松原」バス停。
この付近はかつて松並木が。
(12:53)この先、「松原交差点」で道は右に大きく曲がります。
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(12:58)その先の三叉路が「甲州街道」と「青梅街道」の合流地点。
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振り返る。右が「甲州街道」左が「青梅街道」。
新宿3丁目の「追分」で分かれた「青梅街道」とここで再会。
「青梅街道」。
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「新宿3丁目」付近の現在のようす。「新宿3丁目」交差点から西南に延びるのが「甲州街道」。西北に延びるのが「青梅街道」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)
新宿3丁目交差点。「青梅街道」方向。
また、この付近は、かつては大きな刑場になっていたようで、「南無妙法蓮華経」の大きな供養塔が立っています。
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旧甲州街道はそうした温泉街からも少し離れているせいか、静かなたたずまいの街並みの中を進みます。
石和宿
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒。
石和は武田氏の故地。新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、以降武田と名乗った。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
1961(昭和36)年1月、石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した。
石和とは大小の多くの川が流れる荒地で藺(い)が一面に生い茂っていたので藺の沢と呼ばれ、その後転化し石和となった。
街中に入ってすぐ右手にあるお寺が「鵜飼山遠妙寺(うかいざんおんみょうじ)」。
当山は、往昔文永11年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である。
之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又、謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである。
(11:06)その先、高速バス停前に「石和本陣跡」碑。


石和本陣跡
本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。
石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。

解説板。

宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。
以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。
一画に古い建物。

そこから通りを望む。

広い道路の反対側に「足湯」がありました。そこで、素足を温めながら、小休止(11:11~11:23))。他には誰もいません。通りかかる人もほとんどなし。
足湯の裏手には緑も濃い「石和小林公園」が広がっています。


この公園は、元々、郷土の偉人、小林中氏の家の跡で、その功績が説明板にあります。
大正11年早稲田大学を中退し、家業の石和銀行取締役支配人に就任。その後、30歳のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長となり、52歳の時に日本開発銀行初代総裁となった。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った、とのこと。

「石和温泉駅入口交差点」を過ぎたところで、DoCoMoのお店。炎天下、人通りもない中で、着ぐるみで頑張っています。DoCoMoつながりでパチリ。

(11:32)右にカーブし、甲運橋東詰交差点を経て、「甲府市」入り。

右手の大きな古木の脇に道標、石像。



萬延元年(1860)建立の道標。3面にそれぞれ「左甲府 甲運橋 身延」、「右富士山 大山」、「左三峯山 大嶽山」と書かれています。が、「富士山 大山」の下に「東京」と刻まれています。江戸時代に東京などあるはずがなく、明治以降、元々「江戸」とあったものをその上から「東京」と刻み直したようです。余計なお節介なのか、はたまた?
また、このところが「一里塚」跡のような印象ですが。

(11:50)さてそろそろ昼食時。さらに炎天下、少し早めですが、涼しいところに入ろうか、と。
「アリア入口」交差点のところに「台湾料理 昇龍」さん。このお店へ。ビール(中ジョッキ)と二品選んで980円(税抜き)とあるので、さっそく注文。二品ともまるで大盛り、一人では食べききれないほどで、美味しい。お腹いっぱいになりました。もう炎天下歩きはやめようか、というくらい。たっぷり食事休憩。

しばらく進み、「甲運小学校入口」バス停のところに「和戸町」の解説碑と古仏などが。


和戸町(由来)
和戸町は平安期この附近を中心として栄えた表門郷(うわどのごう)の遺称である。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が存在したことが知られる。地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。
崩れてしまった、丸石を積み重ねた道祖神。

「甲運松原」バス停。

(12:53)この先、「松原交差点」で道は右に大きく曲がります。

(12:58)その先の三叉路が「甲州街道」と「青梅街道」の合流地点。


新宿3丁目の「追分」で分かれた「青梅街道」とここで再会。



「新宿3丁目」付近の現在のようす。「新宿3丁目」交差点から西南に延びるのが「甲州街道」。西北に延びるのが「青梅街道」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

また、この付近は、かつては大きな刑場になっていたようで、「南無妙法蓮華経」の大きな供養塔が立っています。

