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旧東海道碑。潤井川。間宿本市場。鶴芝の碑。真白き富士の嶺。・・・(片浜から富士まで。その5。)

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 国道139号線に合流し、次の「錦町」交差点を右に渡る。植え込みのところにあるのが「旧東海道跡の碑」。

  

 この付近の道路が現在のように改修(昭和40年代)される前は、この碑のある場所を西は青島町(青島村)東は新道町(追分)へ向かって東海道が通っていて(注:実際には東北から西南にかけて)往復する旅人でたいへん賑わっていました
 平成13年5月吉日

   東海道400年祭協賛 富士造園緑化協会
             駿河郷土史研究会

 砂利上に置かれた二つの細長い石は、青島地先より出土した当時の石橋の石だった、らしい。
                  

交差点を挟んで旧東海道は斜めに続いていく。

西南側から交差点方向を望む。

 西南に延びる直線道路を進み、「高島交差点」を渡って、そのまま西の方角へ。

「旧東海道順路」。

 「潤井川」の手前を右に曲がり、続いて左折、「潤井川」を渡る。

「潤井川」上流方向。

 「潤井川」

 源流部は大沢崩れを源とする大沢川と呼ばれ、普段は水が枯れている。上流域は現在でも芝川から取水した用水や生活排水が流れ込むことで形態をなしているため水量が少なく、以前は富士宮市の大中里地区を流れるあたりまでは飢渇川(きかつがわ)と呼ばれた。そしてそこから下流を潤井川としていた。
 上流部には日蓮正宗総本山大石寺の境内を流れる区間があり、その周辺では御塔川とも呼ばれている。なお、大石寺境内を通る国道469号の旧県道時代からの橋である大石橋と現国道の龍門橋(2005年3月完成)との間には、大石滝と呼ばれる滝がある。

 富士山の「大沢崩れ」(大規模な崩落が続き、いずれ富士山の頂上付近の山容が変わるのではないかと心配されている)を源としていることで、崩壊による大規模な土石流などの危険がが予測されて、河道の変更などが実施されているようだ。

正面が大沢崩れ。(「Wikipedia」より)

「富安橋」。

ついに富士山の全貌は見えず。

 来た道を振り返る。けっこう歩いてきた。
                             遠くに見えるのは、「愛鷹山」。

左手にあった石柱。刻まれた内容は判読不能。

 住宅街の道を西へ進む。

「塔の木交差点」。北方向を望む。
   正面に富士山が見えるはずだが。すっかり日も西に傾いてきた。

道路脇に小さな道標。

静岡県総合庁舎の北。

 東海道はしばらくまっすぐな道を進む。そろそろくたびれてきた。折良く、「富士駅」行きのバスが来たのでそれに乗って「富士」駅まで。

 強風のため、東海道線はベタ遅れ。熱海に着くまで何度も何度も停車。熱海で乗り換えて、横浜に着きました。

・・・

 さて、この後、さほど日も経たないうちに、富士宮で法事があって出かけました。思えば、たびたび来るのに、旧東海道関連はまったく訪れる機会はありませんでした。

 昼過ぎまで雲一つ無い絶好の日和。午後になって薄雲が広がってきましたが、帰り道、富士市内の総合庁舎(最終地点)まで回り道してきました。ちょっとイレギュラーですが。それを紹介。

                          
                       「塔の木交差点」付近からの富士山。

  
   「旧東海道 間宿 本市場」紹介碑。庁舎沿いに設置されている。吉原宿と蒲原宿の間の宿場町。

  
                    この説明碑から西にかけて宿場が置かれていた。

その付近から望む富士山。

 しばらく進むと、「鶴芝の碑」。


鶴芝の碑
 この碑は、文政三年(1820)六月、東海道間の宿(旅人の休けい所)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家蘆洲が鶴をかき、これに江戸の学者亀田鵬斎が詩文を添え、碑とした。市内では旧東海道をしのぶ数少ない貴重な文化財である。

 昭和59年2月1日 富士市教育委員会

                   
                  石碑。鶴の絵と、漢詩文が刻まれてある。

 春先の富士山に現れる残雪を鶴に見立てたもの。山の中腹の残雪を鳥などに見立て、農作業の一助にする。そのものが山の名になったものとしては、北アルプスの白馬岳、爺が岳、南アルプスの農鳥岳などがある(いずれも登ったことのある山)。

 したがって、すっかり白雪に覆われた富士山を愛でたのではないのだが、この付近からの、今日の富士山。

  

 今は、住宅の合間からかすかに見える富士山。当時、建物もなく田園地帯だったここから眺めた富士山は、旅人や地元の人間にとってさぞかし格別のものだったろう。

旧東海道。東を望む。

「本市場」詳細図。


 さて次回は、やっと「富士川」越え。

「特定秘密保護法」体制下の現実?

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「防衛省で勝手にやるのはダメだ」菅元首相 政府、事故調調書127人分を公開 東電福島第1原発事故(産経新聞) - goo ニュース

 結局、今回も東電の勝俣恒久元会長や清水正孝元社長ら、事故当時の経営陣の調書は公開されなかった。政府は「本人の同意が得られ」ないので「公開」しないとしている。しかし、多くの国民は一番知りたがっていることなのではないか、彼らの発言内容こそ。
 そうした国民の声はいっさい無視して、彼らの調書は非公開のまま、いずれは廃棄処分になるだろう。

 そして、今回の調書公開もこれまでと同様、菅政権当時の関係者の対応の不手際、まずさを浮き彫りにしている。勿論、そういう側面がかなりあったのは、事実。

 しかし、一番の当事者であった当時の東電幹部。未曾有の原発事故が起こっての対応。そもそも事故を予見出来たのか、出来なかったのか、地震、津波対策はどうであったのかを含め、当時の逼迫した状況下で、原発に熟知した、あるいは対応すべき責任ある立場の調書が、一切明らかにされないまま、アベ政権のもとで、幕引きを行おうとしている。「年内」と期限を切った調書公開の段取りだから。

 このまま東電幹部の調書は闇の中に消え、もう表に出ることはない。・・・

 事故原因、事前予知対策、現場での緊迫した対応、やりとり・・・、これらに頬被りして「原発再稼働」にひたはしるアベ政権。

 これから、これに限らず、こうした事例が増えてくるのではないか。「特定秘密保護」という大義名分のもとで。

 原発事故後数年して、甲状腺がんの疑いのある子ども達が、福島で4人発見されたという。にもかかわらず、原発の影響とは考えられない、と専門家によって否定されてしまった。
 「チェルノブイリ」の例からも、今後数年の間、甲状腺がんに冒された子ども達が多く発見されるかも知れない。それも、闇から闇へ葬られてしまうことはないだろうか。

 「特定秘密保護法」体制下にあっては、そうした情報を得ようとすること自体が犯罪行為になってしまうのだから。

 今回の措置に異議を唱えようとしない、マスコミの及び腰もひどいものだ。国会よりも先にアベへの「大政翼賛会」化した大手マスコミ。すでにアベにすっかり絡め取られてしまっている。

政治(の世界)はこんなものだ、とうそぶいてていいのか

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大阪都構想の住民投票、公明が賛成 維新と協力へ(朝日新聞) - goo ニュース

 この前の衆院選。出るぞ出るぞ、と、公明党・創価学会への敵意をむき出しにしたあげく、結局立候補しなかった橋下さん。その大芝居騒ぎ以来、選挙至上主義の公明との密約が噂されていた。やはり! と思ったのは小生だけではないはず。

 まして、公明党の府連幹部などが学会本部に呼び出されて、維新との関係改善を迫られ、その方針を飲まされた、こうなればぶつぶつ言ってもこれでおしまい! 一件落着! 衆院選の「成果」を受けて、今度は地方選(市議選、府議選)での完勝が至上命令の学会。本部はもとより、大阪の学会幹部が裏で動いたのは明白。「学会主 公明従」の関係はもうはっきりしている。
 今後は、維新との候補者調整を行い、維新は、総選挙の時のように、公明に対立候補を立てないことにも。

 「住民投票」実施を認めただけだ、と公明党は言っているようだが、ここまでくれば、都構想へ賛成に転ずる方針で、自民党も巻き込むはず。何が彼らをして方針変更させたのか、まともな理由説明はいっさい、ない。「住民投票」実施は賛成だが、住民投票の内容には反対する、なんて詭弁が通用するはずがない。「住民投票」に付す『議定書』案は、両党で協議修正して議会を通すのだから。

 今のうちは、維新の連中を安心させ、希望を持たせ、地方選の後の「住民投票」実施に持ち込めば、反対をする、こんな連中のやり口に何度もだまされることはないと思う、橋下さんは。何度も煮え湯を飲まされるほどやわな御仁ではない。「維新」の代表を降りたのも、今回の急転直下の事態と大いに関係がありそう。

 こうして、市民、府民の知らないところで、ことは着実に進んでいく。
 「都構想」なんてもともと無茶だ! 政治の世界のやり方はこんなもんでしょ、などと冷ややかに斜に構えていて、結局臍をかむのは国民。いつになっても懲りないのは、政治家ではなくて、国民。それを見越して、国民を冷ややかに見下す政治家たち。

本市場一里塚。札の辻。水神の森。富士川渡船場。 (富士から新蒲原まで。その1。)

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 このところ断続的に富士宮に来る機会があって、そのついでに少しずつ西へ西へ、と。今回は、所用を済ませてからの午後から。そこで、富士川を越えて「蒲原宿」までは、と。

 前回の「鶴芝の碑」から西へ進んで行きます。

「鶴芝の碑」方向を振り返る。

 また道路を横断します。振り返ると、家の間から遠くに富士山の頭のところが少し見えます。だんだんと富士山が後ろの方に遠ざかって見えるようになります。



 しばらく行くと、「本市場一里塚」。
              日本橋から35番目。花壇の奥に、「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑が建てられているのみ。

そこから西の方向を望む。 

 特に気にしなければ、住宅や公共施設が並ぶ、何の変哲も無い道。この先は、富士駅前から続くアーケードの商店街を横切ります。

  
  その交差点にある案内碑。                     旧東海道沿いの古い家屋。

道祖神。
 道祖神のある角を200mほど南に行き、右折した所に平垣(へいがき)公園があり、芭蕉の句碑や、「野ざらし紀行」の一節が刻まれた新しい石碑がある、らしい。

 旧道沿いの「フジホワイトホテル」の壁面には、「旧松永邸」跡というかなり大きな説明板。松永家は、駿河きっての大地主で、ここ平垣村にあって、領主に代わって年貢のとりまとめを行っていた、とか。その邸宅の跡地に建設されたホテルとのこと。


 説明板の下の方に、「吉原宿」を起点として《日本橋まで34里半8町(144.4㎞)》《京都三条まで90里30町(357.0㎞)》とあった。まだ3倍近くある計算。先は、長い、長い!


 小さな川を渡った左にあるのが、

  
                                 大正5年に建てられた「札の辻跡」碑。 

 「札の辻」とは、高札場がある「辻」のことで、宿場町や街道など往来の多い場所に高札(を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法)を掲示した。
 ここでは、それとはいくぶん異なっていて、下に刻まれた碑文には、この場所より遠く離れた西北の地にある「岩本山実相寺」に関連した説明がされている。

 その昔、西の比叡山、東の実相寺とうたわれ、何百人という修行僧が勉学し、寮生活を送っていた。お寺の敷地も広く、一里四方(4㎞平方)現在の「札の辻」付近まであった、と。 

実相寺 

 宗祖日蓮大聖人が、一切経を閲読し、『立正安国論』執筆の構想をねった寺である。もとは天台宗の寺で、久安元年(1145)鳥羽上皇が比叡山横川の智印法印に命じて創建した。円珍が唐から持ち帰った一切経が納められていた。宗祖当時は49院50坊を数えたという。
 宗祖が鎌倉で法華経の弘通活動を初めてまもなくの頃、 異常気象や地震がおこり、疫病がはやって天地が乱れていたため、その原因と対策を究明するため当山の一切経蔵に入蔵して閲読し、災害から諸人を救済する方策を『立正安国論』にまとめあげた。
 宗祖入蔵のおり、学頭智海法印が宗祖に帰依して日源の名を賜わり、全山あげて日蓮宗に転じた。また、この時、のちの六老僧、日興・日持はここで宗祖と師弟の縁を結んで、常時、宗祖に給仕した。(以上、「日蓮宗中部宗務所」HPより)

その先、右側にある「常夜燈」。

 しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。 

その付近からの富士山。

 見える富士山の姿も少しずつ変化。次第に西の山肌が見え始め、頂上の尖ったところが右にずれていく。こういう変化を実感するのも、富士山を見ながらの旅の面白さ。

「常夜燈と道標」。
 通りの反対側(右手)に常夜燈と道標が見えたら、県道を横断して右に入る。

      

 説明板にもある通り、道標に「左東海道」とあるが、元々の位置から移設されたため、現在は「右」に進むことになる。

 旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。

「東海道 歴史の道」水神ノ森と富士川渡船場」。

東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場

 江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。
 これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
 東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。 用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
 渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。 これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
 水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、 溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。
 このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。

昭和60年1月10日 富士市教育委員会

 この中に記された「雁堤」について。

 富士川は、古くより山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに、日本三大急流の一つに数えられており、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していたが、1615年から古郡重高・重政・重年の父子3代が、1674年の完成まで50年以上の歳月を費やし、水田を富士川の洪水被害から守るため、「雁堤」と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させ、「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。

雁堤の人柱「護所神社」

 堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。
堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。
 とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)
 人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。
 人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面(注:「雁公園」下)には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。

現在

 現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため、昔のような水量ではなく、水敷からも距離があるが、現在も築堤として使用されており、河川区域として国土交通省が管理している。
 広大な堤内地については、隣接する富士市立岩松中学校のサッカー場などのグラウンドの他、市民が利用できる多目的グラウンド、ゲートボール場などとして富士市などに占用許可が与えられている。またみかんやお茶などの畑としても利用されている。
 秋になると長さ1km以上にも及ぶ沿道にコスモスが咲き乱れる。近隣の町内会ごとにエリアが分けられ、当番制で水遣りなどの他エリアに負けずと手間をかけて育てたコスモスはNHKなどの県内テレビニュースでも取り上げられるほど有名となっている。
 毎年10月の第1土曜には、古郡親子3代の偉業と、築堤や氾濫での犠牲者、そして人柱となった僧を弔う「かりがね祭り」が催される。
「岩本山」からの雁堤。

(以上、「Wikipedia」より)

 旧道を左折する時にちょっと見ただけだが、見上げるほどのがっしりしたつくりだ(「雁公園」付近)。写真では中央奥のところ。旧東海道はその左側を通り、中央付近を右折して渡船場に向かう。

左が「富士川渡船場跡」碑。右が「富士山道」碑。「渡船場跡」碑は、近年、建てられたもの。               
       

 慶長6年(1601)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められ まもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生した またこの地から数十㍍南の旧東海道沿いに岩本村が管理した渡船場が存在したといわれる
 これらのことを後代に伝えるため 東海道四百年記念事業の一つとしてこの碑を建立する

 これによると、旧東海道は現在の富士川橋よりももう少し下流方向に進んで川を渡ったとされる。対岸(右岸)の旧道は「富士川橋」を渡って少し北寄りの方向に進むことから、富士川の渡船場は天下の急流を避けるために、上・下流といくどか変遷したようだ。

 いよいよ「富士川橋」を渡って、岩淵に入ります。

1924年(大正13年)完成当時の親柱。
             
                     

 ここからの富士山は次回に。

間宿・岩淵。小休(こやすみ)本陣。常盤貴子。岩淵の一里塚。・・・(富士から新蒲原まで。その2。)

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 すばらしく晴れ渡り、富士山の雄姿が裾野から頂上まで一望できる絶好のポイント。

橋の上からの富士山。正面右奥の河川敷が「雁堤」に囲まれた地域。

富士山の右が、「愛鷹山」の稜線。

 富士はもちろん、すぐ脇に見えていた愛鷹山からもずいぶん遠ざかってしまった。

対岸の松岡側を望む。中央の緑が「水神社」の森。

             下流(河口)方向を望む。
             中央に見える鉄橋。一番手前がJR東海道線富士川鉄橋、最下流には新幹線橋梁。

 写真を撮るには、河口付近まで移動し、東海道線鉄橋、その下流にある新幹線橋梁を入れて富士山を撮るのが絶好のビューポイントらしい。
 たとえば、

       (「公益社団法人 静岡県観光協会」HPより)

 この他、ネット上にはすてきな写真がたくさん掲載されている。

 渡りきった土手の脇にある案内版。「間宿 岩淵・渡船場跡」。

 「富士市岩淵」は、かつては富士川町という、静岡県庵原郡に属していた町だったが、2008年(平成20年)11月1日、富士市に編入合併した。

 ところで、「富士川」を境にして、電力の周波数が東は50Hz、西は60Hzと異なっている。このため、この地域は、電力の周波数、電力会社は富士市(50Hz・東京電力)とは異なり、60Hz・中部電力管轄下。したがって、現在の富士市は50Hz・東京電力地域と60Hz・中部電力地域が混在している。

 どうしてそうなっているか?

 明治時代、電気をつくる発電機が日本に輸入されたが、関東にはドイツから50Hzの発電機が、関西にはアメリカから60Hzの発電機が輸入された。以来、日本では静岡県の富士川から新潟県の糸魚川あたりを境にして、東側が50Hzの地区、西側が60Hzの地区になってしまった。
 糸魚川~富士川は「フォッサマグナ」という、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断する「中央地溝帯」。地質学的には東北日本と西南日本の境目とされる地帯。これとは関係があるのか?

 思い出されるのが、2011年3月11日の東日本大震災。
 これによって引き起こされた東電の福島原発事故。電力不足のため、計画停電にまでなった。
 原発事故対応には、応急電源として東北電力の電源を急遽回した。ところが、富士川をはさんで西東。ヘルツがことなるため、互いに電力を融通しあえない。あの時のような大地震や大事故に見舞われ、電力不足になったときに、もっと臨機応変に東西で対処できないのか。ヘルツの統一ができないのか?

 第二次世界大戦直後、復興にあわせて商用電源周波数を統一するという構想があったが、それぞれ復興が急速に進んだことで、実現がほぼ不可能になってしまった。そして、現在の日本では、供給側にとっては、周波数を統一する必要性はほとんどないようだ。

 周波数を統一するには、一方あるいは両方の地域の発電機をすっかり交換しなければならないうえ、周波数を変更する際に停電が伴ったり、さらに周波数に依存する機器を交換するか、それに対策を施す必要がある。そのため、現実的にはほとんど不可能に近い。

 緊急時に備えて、各電力会社間では電気の相互融通を行っている。異なる周波数の電力会社間での相互融通のためには、50Hzと60Hzの周波数変換を行う周波数変換所が設けられていて、電源開発の佐久間周波数変換所、東京電力の新信濃変電所、中部電力の東清水変電所の3箇所。けれども、両周波数間で融通できる最大電力は現状100万kW(2012年現在)。

 こんな訳ありの事情があった。

 その一端として、中部電力も東電もその他の電力会社も自前の電力確保にこだわり、当面の経済効率性とあわせ、原発再稼働になりふりかまわず、必死なのだ。再び福島原発のような大事故が起こることなど想定してはいられない。

旧東海道沿いにあった「中部電力」の社屋。

 さて、橋を渡り終えたら、道路を横断して右に少し進み、すぐ左の小道(坂道)を登って行く。このあたりは、「富士川」によって形成された河岸段丘上。
 地形的に見て、左岸(東側)は河岸段丘はなくて低地が続き、かつては田畑が多くあった。
 現在は住宅街になっているが、富士川下流、河口付近の氾濫原地帯として、長い時代、水害に悩まされたようすはうかがえる。したがって、近世の東海道も「吉原宿」から西は海岸付近を避け、いくぶん高いところを進んでいく。富士川の渡船場も河口付近ではなかった。

上り坂の途中から、富士駅方向を望む。

 右手にあった「常夜燈」。

  
   「小休本陣常盤邸」。正門の柱には、「西條蒋小休」と休憩している公家の名が掲げられている。

 土日祝日のみ公開されているため、残念ながら見学出来ず。

     小休本陣常盤邸の建築
   

 常盤家は、江戸時代初期から富士川右岸の岩淵村で、渡船名主(とせんなぬし)を務めてきました。岩淵は、東海道吉原宿と蒲原(かんばら)宿の間に位置する「間宿(あいのしゅく)」で、その休憩施設「小休本陣(こやすみほんじん)」の役割も果たしていました。ところが、安政の東海地震(1854年)で全ての建物が倒壊し、その後再建されたのが現在の建物で、小休本陣の特徴がよく現れています。
 玄関を入ると奥まで通り土間が続き、さらに正面の庇(ひさし)部分も前土間になっています。部屋数も多く、部屋境は障子や襖(ふすま)で間仕切られた開放的な空間です。奥の座敷「上段の間」は、最も格式の高い部屋で、大名などの賓客(ひんきゃく)のみが休憩することができました。通り土間の奥には台所があります。

(以上、「」より)

 なお、この邸宅は、女優の常盤 貴子(ときわ たかこ)の実家である常盤家所有のもので、紀伊徳川家が休憩のため利用した小休本陣として、静岡県指定文化財に指定されている。
                

 振り返ると正面奥に富士山。昔ながらの街道筋らしい雰囲気を味わえる。
      

 案内版も充実している。


 徳川家康の命によって「富士川」開削をおこなった「角倉了以」の碑などこの周辺は見所満載のようです。

「蒲原宿」までの道のり案内。

右手に「上水道築造記念碑」を見ながらまっすぐ進むと、「岩淵の一里塚」が見えてくる。

   

 日本橋から37番目の一里塚、「岩淵一里塚」(36番目は富士川渡船中に通過)。

史跡 岩渕の一里塚

 江戸時代に築造された東海道の里塚である。
 慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
 この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。
 この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
 また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。

    
    西側の塚。                   東側の塚。 

 ほぼ直角に曲がる地点にあり、絶妙なポイント。通行の邪魔になるからと伐採されず、よく保存されている。

振り返って望む。
 右が東の塚。左が西の塚。東西一対で残っているのは、珍しい。

ひときわ目立つ、西の塚の古木。

 続きは、年明けに。

読書「未明の闘争」(保坂和志)講談社

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 幽冥の世界のお話。小説の冒頭から3行目の一文。
「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」??? 主語と述語のぶれ。こうした表現は随所に。語り手と主人公(登場人物)の意図的な不一致をはかっているところも。

 と、パソコンに打っていると、TEL。中年の女性の声で、「もしもし森ですけど先ほど来ていただいた」「どちらにおかけですか?」「何だ、間違えた」と電話口にいるだろう人に向かって言って、そのまま電話が切れた。
 これもまたこの小説の冒頭にある、夜明け前の「ピンポーン」、その後二度は鳴らなかった玄関先のベルの出来事と、とついかぶった。

 正月早々、はたして先ほどの電話の主はいったい誰か? 登録された電話番号のようだったが、・・・。

 池袋駅「ビックリガード五叉路」を取り巻く店舗の変遷や名称、信号が変わって交差点を行き交うたくさんの多くの人々のそれぞれの、事細かな描写。9年前の夢の鮮明な内容でありながら、内容は現在時点(執筆時点)。いきなり読者を引きずり込む手法(技法)は、手慣れたものとしか思えない、たぶん鼻につき、抵抗を持つ読者もいるだろう。すでに「未明の」という表題で種明かしがされていることも含めて。しかし、「闘争」とは何か? ここに作者の真骨頂がある。作家としてよりも人間としての。

 実は、たまたま、分厚い大判の「小島信夫短編集成⑧ 暮坂 こよなく愛した」(水声社)に載せられた小島信夫の最晩年の短編小説群を、並行して読んでいる。

 すると、文学上の師・弟子の関係であった両者の文学的「雰囲気」(あえてこういう)の醸し出す世界が広がっていく。



 生前、特に晩年の小島信夫の文章(執筆した小説を本人があえて「文章」という)は、たゆとうままにものし、編集者に校正を許さなかった、という。あたかもそうであるかのような「書き出し」。かつて書いた「カフカ的世界」でもあるか。

 いな、むしろ作者が初期の頃から追い続けている(こだわり続けている)「閾(いき)」の世界の具象化(言語化、文章化)。
 その通奏低音として、一人ひとりのネコたちとの出会いと生活、そして死、鎮魂曲を響かせている。今回は幼少期のイヌとの出会いと別れも語られているが・・・。

 さて、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、

「閾」とは、
 広義にはやっと意識される境界刺激のこと。厳密には刺激を量的ないし質的に変化させた場合,ある特定の反応がそれとは異なった反応へと (またはある経験がそれとは異なった経験へと) 転換する,その境目の刺激尺度上の点のこと,ないしはこのような反応の転換の現象をさす。

と記されている。

 まさに「分明(ふんみょう)」ならざる「閾」への「闘い」が存在する。いいかえれば「未明の闘争」ということになるか。
 作者の常日頃の人生観、即ち、時空間的な世界、さらには森羅万象ことごとくを自在に行き来する、という存在感、世界観でもあろうか。それを物語世界に写し取った作品であった。

新幹線。東名高速。新坂。蒲原の一里塚。・・・(富士から新蒲原まで。その3。)

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 昨年末からの続きです。

 「一里塚」を道なりに曲がり、「富士川第一小学校」を過ぎると、道は南下していく。しばらく進むと、右手の角に案内図。そこを右に曲がる。
                         
                         わかりにくいので、地元の方が取り付けてくれた感じ。

 ただし、旧東海道時代、先ほどの「一里塚」で道が直角に曲がっていたとは考えにくい。河岸段丘の縁をそのまま南下していたのではないか。少し曲がりくねりながら、この道に続いていたように思える。途中にある「常夜燈」も道の整備によって本来の位置から今の場所に移されたのではないか、と。宿場でもないのに、これほど短い距離で三箇所も直角に折れていたとは思えない。
 今、旧道は住宅地に組み込まれたか、細い道として残っているような気がする。ことによると「市立富士川民俗資料館」前の道?

 ここまで来る間にも、道路の整備、宅地化、土地の改良、開拓等によってかつての東海道が不明になったり、消滅したケースはたくさんあった。

 現在の道路事情に基づく案内に従って歩いているのは、やむをえないことではある。なにしろ「東海道」。江戸時代以前からの一大幹線道路として活躍している長い歴史の中で、その後、明治までにはなかった、架橋、鉄道、新幹線、高速道路、道路拡張、付け替え、舗装などが激しく行われたのだから。
 旧道「マニア」が遠慮もなく、勝手に私有地や私道に入り込み、写真を撮ったり、あれこれ詮索されたのでは、迷惑そのもの。まさに、現在に即応した「東海道」歩き、ということでいいのだろう。

 おそらく箱根路のほんの一部の「石畳」などに残るのみで、旧東海道の道そのものは、ほとんどないはず。「蒲原宿」など、街道沿いの街並みは大きく変化していても、道筋そのものが残っているのは、救いだが。

 東海道から目にする富士山も、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永の大噴火によって、東南斜面が一変し、江戸初期の東海道から見た富士山の姿とはまるで異なっている。さらに今や、「大沢崩れ」の進行で、20年前、30年前に比べても頂上付近の姿が変わってしまっているようなのだが・・・。これで、大噴火でも起きたら、景観は一変するだろう。

 こう言い出すと、きりがなさそう。この先、東名の下をくぐる道も本来の道かどうか、東名高架橋を越えて左に曲がり、東名沿いの直線道路も付け替えられた道。分岐点に大きな石碑があるが、その脇をゆるやかに左に曲がっていたような、あるいは、石碑は東海道とは無縁であったか。
 その先の分岐点では「右行き止まり 左蒲原」という道標によって左の道を進むことになるが、本来はまっすぐ右の道を進んでいたのではないか(右の道は新幹線によって阻まれる? )。

 注:ネットで調べたら、やはり右の道が旧道だった。車は進入禁止という意味で「行き止まり」とあったのだ。新幹線の高架下には人道用の地下道がつくられていて通り抜けられ、先ほどの左へ向かった道と合流することになるらしい。左の道は新幹線敷設のためにできた迂回路だった。・・・

 JRの変電所脇を過ぎた先、石碑と常夜燈のある一角あたりもあやしい。しばらくして、先ほどの(新幹線によって、車行き止まりになった)道(本来の東海道)と合流し、その先はしばらく旧道を進むことになる。今度は、東名を陸橋で越えるが、ここも大幅に付け替えられている。

 また、その先は、直線の長い下り坂になるが、これも江戸幕府によって整備された初期の「東海道」ではない。坂を下りきったところで、左から下ってくる道が当初の東海道のはず(現在、「日本軽金属グループ研究センター」敷地南方を通っていたと思われる)。

 この地域に限ってこのように記したのは、しだいに山が海側に迫ってきて、ここまでそれぞれ離れて進んでいた東海道、国道1号線、県道(旧国道1号線)、JR東海道線、新幹線、東名などの交通機関、幹線道路網が南西方向に向きを変え、だんだんと接近してくる地点。そうした交通機関の新設・開発による地元の生活道路の確保も重要。さらに自然災害への防備、・・・。

 そのために、旧東海道は、付け替えられるところが増えてきたのだと思う。おそらくこの先、次の難所・「薩埵(さった)峠」付近も大きく変貌しているに違いない。

「常夜燈」。

 振り返ると、富士山。

「中之郷」地区。「車坂」付近。
 ゆるい上りで、東名の下をくぐり、東名に沿った道を行く。

正面に大きな石碑「野田山不動明王」。左へ。

 しばらくは、山沿いの、旧道らしいのんびりとした雰囲気の道がつづく。
   

正面左手に「ツル屋菓子店」の看板。

 この付近には、名物の「栗の粉餅」を売る茶店が立ち並んでいたらしい。 近年、この餅を現代風にして復活させたお店が「ツル家菓子店」さん。このお店は和洋の菓子を扱っている。買い物客が車を駐めていた。 

振り返れば、富士山が。

 分岐点を左(旧東海道ではなく、新設の道路)に進んで、新幹線のガードをくぐる。JR変電所の向こうに富士山。

                         

「聳岳雄飛」の碑と常夜灯。

 左手に、古い常夜灯と並んで「聳岳雄飛」と刻まれた碑がある。昭和45年の区画整理事業を記念して建てられたもの。

 しばらく進むと、右手からの旧東海道の道に合流して、旧道を進むことに。

  

 坂道を上ると、東名高速道路が左手に。

 「東名」上の橋を越えると、静岡市。 
                             当然、この橋は東海道ではない。 

橋の上からの東名と富士山。

 東名を越えると、直線の坂道を一気に駿河湾目指して下って行く。周囲は整然とした住宅街。その途中の住宅の門前に説明板。
 
   
                              「新坂」。

 この峠道は天保14年(1843)9月中頃から12月初旬にかけて普請をして同月7日から通行開始した
 旧往還はここより東南の崖上(七難坂)を辿った

 坂を下りきったところから振り返る。 

  
                          38番目の一里塚。

東海道一里塚跡
 一里塚は慶長9年(1604)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約4㎞)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。
 一里塚は、道路をはさんで両側に約2㍍ほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄12年(1699)の大津波で流出して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。
 静岡市

蒲原宿。東木戸。広重「蒲原夜之雪」。・・・(富士から新蒲原まで。その4。)

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 静岡市蒲原宿の町並み
 (清水区蒲原二丁目・清水区蒲原三丁目)

 慶長6年(1601)に東海道の宿駅に指定された蒲原宿は江戸から数えて15宿目に当たる。
・・・
 江戸時代の蒲原宿は富士川を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わったという。
元禄12年(1699)大津波に襲われ、壊滅的な打撃を受けた。そのため現在のJR新蒲原駅の南側にあった宿を、北側の山裾に宿替えが行われた。
 元禄16年(1703)の蒲原宿明細書上帳によると家数307・人数2,379である。天保14年(1843)の宿村大概帳によると家数509・人数2,480。本陣1(本町)・脇本陣3(本町1・天王町2)。旅籠屋42・問屋場一ヶ所であった。文久年間(1861~64)頃作成されたと思われる蒲原宿町並軒別帳によると、宿家数455のうち往来稼ぎ78・旅籠屋47・馬持22・茶屋17・菓子屋などの商人が57であった。
 江戸時代初期に富士川の舟運が開かれ、甲州から岩淵(旧富士川町、東海道の間宿、川湊)まで川下された荷が陸路で蒲原まで運ばれ、そこから清水湊などへ船で運ばれ、蒲原は廻船業でも栄え、廻船の基地でもあった。
 また、蒲原は製塩業も盛んで多くの農家が塩田を持っていたし、漁業も重要な産業であった。
 明治5年には灌漑用を兼ねた運河が掘られて岩淵から蒲原まで、水路で運ばれるようになると、荷を直接甲州から蒲原に運べるようになり蒲原の堀川溜りは大変賑わった。しかし、明治22年の東海道線の開通、次いで中央線・身延線の開通などにより、江戸時代初期にはじまった富士川水運もその役割を終えた。
 蒲原宿には当時を偲ぶ伝統的な家屋は少なくなっていて、連続した町並とは云えないが、今でも宿場当時の面影が色濃く残っている。黒板塀の本陣跡建物も健在で、なまこ壁の商家の建物もある。この町並を歩いていて好印象を与えるのは、この町がこの宿場町の保存に取り組み、案内表示板や説明板を各所に設置していたり、町並保存のための講演会なども企画されている努力の賜物だろう。

matinami.o.oo7.jp/tyubu-tokai1/sizuoka-kanbara.htmHPより)

 さて、「一里塚」からしばらく進むと、いよいよこの先が「蒲原宿」入口。
 車も(ついでに人も)ほとんど通らず、喧噪とは無縁の世界の落ち着いた、静かな街道筋の雰囲気。訪れた方々の「blog」などを拝見すると、この宿場の雰囲気に魅了されるようだ。はたしてどうか?

来た道(東方)を振り返る。

宿方向を望む(西方向)。

 「一里塚」のすぐ向かい・右手に「北条新三郎の墓」という案内表示。

 蒲原城主だった「北条新三郎氏信」の墓碑がある。永禄12年(1569)武田軍に攻められ自刃した。蒲原城は、蒲原宿を見下ろす道城山の上に建つ要衝の城であったが、大軍で勢いのある武田軍に敗れてしまった、とのこと。ただし、三島のお寺にも遺骨があるそうだ。 
 なお、敵の武田軍の総大将は、信玄の4男勝頼。北条新三郎は、北条早雲の孫にあたる。
  
「蒲原宿東木戸」。

 神奈川県内で見かけた、それぞれの宿場の東西の入口(江戸方、京方)にあった「見附」 という形態ではなかったようだ。

説明板と蒲原宿案内図。

 江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型になっています。
 また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜燈とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政13年(1831)のものと考えられています。

 静岡県

                    


少しカーブした桝型から東を望む。
 ここまでは、「蒲原1丁目」。この先から「蒲原2丁目」となり、厳密に宿場の内側となる。

 宿内に入ってすぐの公園のところに大きな案内版。

 その右手には巨大な4本の導水管。 
        日本軽金属・第2発電所。

 山の上から水を落として発電させて、アルミの精錬に用いている。JR東海道線を挟んで海側に、日本軽金属の蒲原製作所とグループ技術センターが設立されている。
  
  

概要
 蒲原製造所は、日本軽金属の各事業部門の複合組織です。 この組織には、
・各工場に電力を供給する水力発電所
・純度99.99%のアルミニウムを生産する蒲原鋳造工場(偏析部門)
・あらゆるアルミニウム製品素材の供給基地である蒲原鋳造工場(鋳造部門)
・各種押出製品を生産する日軽蒲原(株)押出工場
・コンデンサー用電極箔を化成加工する蒲原電極箔工場
・平行流方式のカーエアコンコンデンサーを生産する蒲原熱交製品工場
・苛性ソーダをはじめ各種化学製品を生産する蒲原ケミカル工場

 および新規事業・開発製品等の生産をおこなう工場があります。また、この地区には、日軽グループの技術開発を担うグループ技術センターを始め、日軽グループの関係会社が活動しています。 テクノロジーカンパニーをめざす日本軽金属グループの、アルミニウム地金から各種加工製品にいたる、複合事業を担う蒲原製造所は、長期にわたって蓄積された技術力を最大に発揮し、自家用水力発電設備を擁するアルミニウムの総合工場として、お客様のさまざまなニーズにお応えしていきます。

水力発電設備
 蒲原製造所の工場群を動かす電力の大部分は、自家用水力発電所から供給され、一部不足分は買電に依っています。 自家用水力発電設備は富士川の中・下流域にわたって、雨畑ダム・柿元ダムの高堰堤、槫坪・波木井川・塩之沢・十島の低堰堤、導水路および6ヵ所の発電所からなっており、合計で142,500KWの出力があります。 全発電所が蒲原製造所内の制御室で、一括監視制御されています。

HPより)

 その先の左手の空き地には、「帰省客専用駐車場」の張り紙。
                             期間は、「12月27日~1月5日」とあった。こうした配慮がうれしい。

 このように、この地には訪問者への配慮がされている感じがします。

   
                          写真による紹介もたっぷり、詳しく。

木屋の土蔵「渡邊家土蔵(三階文庫)」。

 左手の奥に珍しい三階建ての土蔵がある。渡邊家土蔵で三階文庫と呼ばれ、町指定の文化財となっている。



 渡邊家は江戸時代末期に問屋(といや)職を代々務めてきた旧家です。また、材木を商っていたことから「木屋」の屋号で呼ばれていました。
 「渡邊家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上に行くにつれて少しずつ狭まる「四方具」(四方転び)という耐震性に優れた方法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札から、天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、町内最古の土蔵であると考えられます。この土蔵の中には、江戸時代の資料が多く保管されています。平成13年8月29日、町指定有形文化財に指定されました。

     静岡市

 平日の午後ということもあるせいか、人の姿がほとんど見えず、車も通らない。

  

その先にある「馬頭観音」供養石碑。

  
                        なまこ壁に「塗り家造り」の家(佐藤家)。

 当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。
 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果は大きく、昔から贅沢普請といわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。
 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟の屋根とが調和して、重厚感にあふれています。
     静岡市

                              

商家の面影を残す「塗り家造り」。

問屋場跡。 

 行く先の右手には旅籠跡の「和泉屋」。

 その手前の小川を左折すると 「蒲原夜之雪」記念碑がある。蒲原宿のほぼ中央に位置するところ。その前に原画を。 

         

 濃墨と薄墨の見事な調子によって更けてゆく雪の夜の静けさと雪明りを表現している。寒さの中を蓑を着た人や、傘をさした人が雪の積もった道を一歩一歩、歩いていく。五十三次中、優れた作品の一つであるといわれているが、この地は特に雪深いというわけでもない。絵師の想像力の豊かさが楽しめる。


 大正期の蒲原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より

                 (「」HPより)。

 注:上の大正期の写真は、背景から、蒲原宿の西のはずれから東方向を撮ったものと思われる。一方、広重の絵は、新坂(それ以前の七難坂)を下り、宿場の手前まで来たところを描いていると思われる。 

 当時(以前)に、蒲原にこれほどの雪深い景色があったのか? そもそも広重は本当に東海道を旅してスケッチしたのか? 
 こうした疑問が生じて、さまざまな議論がされているようだ。

 「Wikipedia」では、以下のようになっているが、・・・。
 
 1832年、広重は江戸から京都へと、御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として、東海道を旅している。馬は将軍からの象徴的な贈り物であり、天皇の神としての立場を尊重して、毎年贈られていた。
 旅の風景は、広重に強い印象を残した。彼は旅の途上でも、同じ道を戻った帰途でも、数多くのスケッチを描いた。家に帰りつくと、広重はすぐに『東海道五十三次』の作製に取り掛かり、第1回目の版を出した。最終的に、このシリーズは55枚の印刷となった。53の宿場に、出発地と到着地を足したものである。

 様々な観点から見てかなり疑問符がつく内容のようで、いろいろな方々が上記とは異なる説を展開している。 

西本陣跡。西木戸。蒲原宿あれこれ。・・・(富士から新蒲原まで。その5。)

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 「蒲原宿」の核心部。小川に沿って左手を入ると、大きな「蒲原夜之雪」記念碑。

   

 その脇には、広重の「蒲原 夜之雪」。
                       


説明板。

 「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保3年(1832)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京に上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。。
 昭和35年、「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して、広重がこの絵を描いたと思われるこの場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。
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 しかし、場所的には構図の上からおかしな印象。この辺りが宿の中心に近い地だから建設したとも思える。

旅籠「和泉屋」(鈴木家)。

 この建物は、江戸時代「和泉屋」という上旅籠でした。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。
 今に残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。
 弘化2年(1845)の「蒲原宿商売調帳」に、「和泉屋間口間数6.1」とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られています。
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 そしてその向かいには「西本」陣跡。その門前で、ここまで、車にもすれ違わず、行き来する人にも会わなかったのに、バイクと軽自動車が停まっていて、人だかりが。いったい何が起こったのか?

 写真を撮るのをためらっていていたところ、会話のやりとりからどうもバイクと軽トラが出会い頭でぶつかったらしい。そこに関係者らしき人が寄ってきた、といっても、5,6人だったが、という次第。

 ちょうど門前でのやりとりだったので、写真も遠慮しながら。 

説明板。人に少し移動してもらって。

 本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣)もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていました。
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 そのうち、車が1台停まって、小耳を立てると、どうも郵便局のバイクが事故ったらしい、と。・・・落ち着いた風情の町がここだけちょっとにぎやかに。この後も誰にも会わなかったのだから。
 
「ようこそ蒲原へ。案内版」。


 その先には、

手作りガラスと総欅の家(磯部家)。

 明治42年(1909)に建築された当家は、素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられた欅を材とし、柱や梁から一枚板の戸袋に至るすべてが欅づくりで、永年磨き込まれた木目がみごとです。
 二階の窓ガラスは、波打つような面が美しい手づくりのガラスです。
 日本における板ガラスの生産開始が明治40年ですから、国産、輸入品の見分けは困難ですが、当時の最先端の建築用材といえます。

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 右手にある高札場跡。

 左手の路地入口にある「御殿道」跡。

 かつてこのあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備されて規模も大きくなりました。
 御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなもいに、寛永11年(1634)家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。
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大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」。

 「国登録有形文化財」。
 旧五十嵐歯科医院は、蒲原にいくつかある大正時代の洋館の中で代表的なものです。
 大正の初め、帝国ホテルに代表される西洋風の建築が移入され、洋館造りが流行しました。
 南側がガラス窓、下見板張り(羽目の板が横に張ってある)の白いペンキが眩しい洋館でしたが、内部はほとんど和室で、水道がなかった時代に井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っています。名医として知られ、田中光顕伯爵も患者の一人でした。
  静岡市

  
                         蔀戸のある志田家
 「国登録有形文化財」。
 蔀戸(しとみど)のある志田家の住宅主屋等が国登録文化財となっている。安政元年(1854年)に建てられたもの。
 志田家は山六(やまろく)の屋号を持つ味噌や醤油を醸造する商家であった。
 蔀戸とは、日光や風雨を遮る戸のことで、上下2枚に分かれており、上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は懸金(かけがね)で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは、下の戸は取り外せるようになっている。
 昼は上に吊り上げて目隠しにし、夜は下ろして戸締りの役を果たしていた。

 格子の美しい家。


 西の枡形。振り返って望む。

 西木戸・茄子屋の辻。

 蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。
 もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。
 この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。
 承応2年(1653)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。
 当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝として、保存されています。
  静岡市

上の記事にもある、当初の宿場だったところはどうなっているか? 「新蒲原駅」へ戻る途中、県道396号線(旧国道1号線)沿いにあった「古屋敷」という標識。
 右に折れる細い道は、駅の南側に通じる道。旧道で、その先には、旧宿場の痕跡が残っているかも知れない。東海道からはずれてひっそりと。あるいは再開発ですっかり無くなっている? 新蒲原駅南口側は、公共施設や大型店舗などで賑わっている様子だが。

「古屋敷」。

 というわけで、足早に通り過ぎてしまった。出先からの回り道。ちょっと時間が遅かった!

 ・・・

 次の16番目の宿場・由比宿まで約4km(1里)の道のり。

読書「言葉と死 辺見庸コレクション2」(辺見庸)毎日新聞社

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 年明け。暇に任せての、その程度の読書姿勢で果たしていいのか? と自問自答しつつ、最近読み進めている辺見庸さんの作品、あれこれ。
 そのうちの一つ。

 「小人閑居して不善を為す」。せめて精神だけは退廃のそしりを免れたい、と思いつつ。・・・

 それにしても、脳出血から二度に亘るガン闘病(たしかそのはずだが)。不自由な肉体を自らむち打って理不尽な、不感症な世間(政治や体制批判等と大向こうを狙って声高に叫ぶ(一見、そんな風にも見られがちだが)のではなく、まず己にその批判の矛先を向け、徹底した自己否定の姿勢。そこから読者に「闘い」を挑む姿に、己の惰弱を恥じるのみ。

 輯録された作品は、1990年代の終わりから2000年代の初頭にかけてのもの。おそらく大病と不自由な肉体との闘いを余儀なくされていたころの作品群。「死」という括り方にご本人の意志が働いていたか、極めて具象的なものになっている。 

 死刑制度。永山則夫の死刑執行に関する発言。彼との具体的な関わりの中から、それに自らの身体状況を重ねながらの。抽象性、あるいは客観性を排除しながらの肉声による発言。かえって、普遍性を獲得することができる、そんな文章の力を否応なしに感じる。

 マスコミ状況。当時の政治状況。新ガイドラインによる法整備、国旗国歌法、・・・、それらをめぐるマスコミの表現手法を戦前の「ペン部隊」になぞらえ、厳しく将来を突く姿勢。今まさに、選挙報道、その後のアベへの追従ぶりなど、現実的なものになっている。
 
 評論。特に時事評論は、その時々の、時代の奥底、急所を的確に「打ち抜き、えぐり出し」つつ、その後の時代の転換点においてもなお予言的な意義を持つものこそ、本物の文章だろう。


 近年、発表される評論は、ますます先鋭になりつつある。それは、筆者の心身がともにますます先鋭化しつつことにあるだろう。筆者の、「否定」しつつ、閉塞するばかりの自他を取り巻く環境に打って出るその志を共有できることは、なまやさしいものだはないが。 

 「この国でものを書くということは、といま再び私は考える。そう意識しようとすまいと、戦前、戦中の物書きたちの途方もない背理と、どこか深いところで関係することを意味する、と。」《業さらし》  

イルカスマシ。「由比新町の一里塚」跡。由比宿東桝型跡。(新蒲原から興津まで。その1。)

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 1月7日(水)。 予報では快晴。前夜来の激しい雨も止んで、これはいいだろうと東京発、早朝の東海道線。沼津で浜松行きに乗り換えて、「新蒲原」まで。

 ところが、乗っているときから雲行きが怪しい。晴れ間ものぞかず、海側には一面に厚い雲が垂れ込めている。小田原を過ぎて、熱海辺りでうっすらと薄日が差し始める。これなら丹那トンネルを越えれば晴れが期待できるか。しかし、状況は余り変わらず、そのまま「新蒲原」へ。ここまで来た以上、降りるしかない。まだホームも階段も濡れていて、雨の名残り。

 階段を掃除していたおばさんに、「けっこう降ったようですね」「そうですね。でも、寒くないですね。」・・・。雨の降りそうな気配がないのは、幸い。

 駅南口広場はまだ閑散として、北側に回るも、店はなし。先の方に見えた「コンビニ」を目指して歩き始める。時折、車が通る旧国道1号線を西へ。コンビニでおにぎりと飲み物を購入、いざ! 出発!

西へ。
 

 道沿いには格子戸の美しいおうち。  


 清水銀行の手前、右手に「鮮魚の秋田屋」。

「イルカスマシ」って書いてあるが、いったい何なんだろう。気になっていたので。ちょっと通りを渡ってお店へ。

              
                店の中を覗くと、商品棚に1袋1000円で売っていた。

 お店のおやじさんの話。

 「イルカの背びれのことをここではスマシって言う」
 「塩漬けにしてあって、少し柔らなものから固いものまであるよ。」

 「イルカスマシは蒲原だけの食習慣で、蒲原の人は昔から食べていた。」
 「昔はここの港でとれたやつをさばいていたが、今はとっていない。他水揚げしたものを回してもらっているんだ。」
 「ほら、ふぐだって下関以外の漁港で水揚げされても下関に回すじゃないか、そうすれば、『下関名産のふぐ』となるとのと同じさ。」(さすが「下関のふぐ」と同じ扱い)

 「蒲原には、昔からペンキ職人が多くて塗装屋だな、東京タワーなんかのてっぺんを塗ってるものも、ここの出だね。それから国鉄の鉄橋なんかも塗ったりしていた。そういう連中が東京なんかに仕事に出て、はやらせたでたんだな、このイルカスマシ。」(ペンキ職人の話は初めてだし、東京でそういう人たちがはやらせたなんて、初耳)

 「桜エビなんかも、昔はとっていなかった。明治とか大正になってからだね。駿河湾はけっこう深いんだな、あれは深海の方にいるんじゃないか。だから、いるのはわかっていても、昔はとる技術がなかった。今は、海の上から灯りを照らしていっぺんにとっちゃう」
 「けっこう観光客が来て、買ってくれて、それを宣伝してくれるんだ」。(こちらもブログに載せますから)

 「通りすがりじゃ何だから、今度、車で来たときにでも寄っていきなよ。」・・・、



 しばらく進むと、JR蒲原駅前。「東海道」の表示。

   
                    美しく、年期の入った格子の家が通り沿いにいくつも。 

 正面奥に「東名高速」の橋脚。

振り返って東方向を望む。

 東名高速の下をくぐって、旧東海道は、右に向かう旧国道1号線(県道396号線)と分かれてそのまま直進。



 「由比」の町に入る。

すぐ右手にある「一里塚」跡碑。

説明板。そうとう痛んでしまっている。

 ・・・
 由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~71)、山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀っていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。

 平成6年3月  由比町教育委員会

つい見逃してしまいそうな跡碑。

 しばらく行くと、由比宿の東木戸。

由比宿東桝型跡

 宿場の出入り口は桝型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入り口の道標にもなっていました。
 ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていました。
 由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されています。

 清水区魅力づくり事業

このような桝形になっている。

御七里役所之址。由比本陣公園 東海道広重美術館。正雪紺屋。・・・(新蒲原から興津まで。その2。)

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 ここからが「由比宿」の核心部。直線の街道沿いに旧本陣などが並んでいる。「由比」宿は、「蒲原」よりもこじんまりとしているが、かつての街道筋の面影をよく残している。

 「田子の浦」といわれた由比から興津にかけての浜辺では塩浜、塩田が広がり、塩の大生産地だった。ここでは海水を濃縮して、これを煮詰めて塩を得るという方式。そして、塩を中心とした駿河の物産を富士川の水運や峠道を利用して、甲州に運んだ。だから、昔から海の幸によって栄えた土地でもあった。東西往還は「東海道」が主なルートだが、物品の輸送というよりは、人の移動が中心。

 明治以降、静岡・清水と富士・沼津などとの往還は、海岸寄りにつくられた「国道1号線(東海道)」、東海道線、昭和30年代後半につくられた「東名」、あるいは山寄りの新幹線が主流。一方、ここは、北西には崖崩れの恐れもあるそうな、山の急斜面が迫る土地に、長い間に亘って形成されてきた街並み。

 そのため、幹線道路や鉄道線路に挟まれながら、「薩埵峠」東下の「間(の)宿」付近を含め、明治以降も昔のままの雰囲気が残されてきたのだろう。「旧国道1号線(現・県道396号線)」が宿場の町中を迂回し、山側を回りこむようにつくられたのも幸いだった(反対運動があったか)。

 左手のおうち。



昔の商家(志田氏宅)
 江戸から京へ上がる旅人が、蒲原から由比へ入る時、ここは当初の由比宿の東木戸で、枡形道路の形態をとどめている。
 志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家のたたずまいも昔の商家の面影を残している。
 入口(どまぐち)を入ると帳場、箱階段等が残っている。

 平成十六年三月  由比町教育委員会

 ご不幸があったようで、そのしるしが置かれていた(説明板の下にあるもの)。  

 右手の壁に大きな説明碑。

 御七里役所之址

 江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあった。
 此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸和歌山間584キロに約七里28キロ毎の宿場に中継ぎ役所を置き5人1組の飛脚を配置した。
 主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。
 普通便は毎月3回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発道中八日を要した。特急便は4日足らずで到着した。
 幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは、由比駅における紀州家お七里役所のことである。
 この裏手に大正末年まで七里衆の長屋があった。

 昭和46年    静岡民俗の会        

              
             その右隣にある木造住宅。実に立派。上の記事とは関連はないが。

 その先には、

「由比本陣公園 東海道広重美術館」。

   

 ここは由比宿の本陣屋敷跡で、屋敷の広さは約1300坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
 大名等が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
 向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された離れ館を復元したもので、記念館「御幸亭(みゆきてい)」といいます。付属の庭園は「松榧園(しょうひえん)」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
 右手奥の洋館は広重見術館で、もとこの位置には土蔵が建ち並んでいました。

   静岡市

 「静岡市東海道広重見術館」。

 さっそく見学したが、中身は大変充実していて、時間があればじっくり見て回る価値が充分にある。
 特に、今回、特別展として展示されていた「めいしょにかほ 浮世絵筆くらべ」は、圧巻。
 東海道や江戸の風景を描いた歌川広重と歌舞伎役者や美人を得意とした三大・歌川豊国という、幕末を代表する二人の絵師が一つの絵に筆を振るった「雙筆五十三次(そうひつごじゅうさんつぎ)」「東都高名會盡(とうとこうめいかいせきつくし)」の肉筆浮世絵が展示されてあった。
 宿場にぞらえての美人絵、江戸の名高い料亭などにかこつけての歌舞伎の演目と役者絵。・・・筆づかいはもとより、演題の面白さ
など、見飽きない。
 この他、館内は、木版画の制作過程、浮世絵の歴史、広重などの浮世絵師の系図など、興味深いものが展示され、また木版画の実演などもできるようだ。

 旅の途中にちょっと寄ってみる、程度ではもったいない内容。ぜひ、また訪れたいところ。
     
                        

「東海道広重美術館」 沿革・概要

 平成6年、東海道の宿場町「由比宿」の本陣跡地である、由比本陣公園内に開館した東海道広重美術館は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(1797-1858)の名を冠した、日本で最初の美術館です。
 収蔵品は、広重の代表的な東海道シリーズ『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)、『東海道五十三次』(隷書東海道)、『東海道五十三次之内』(行書東海道)の他、晩年の傑作『名所江戸百景』など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数えます。
 常に新しい視点で、浮世絵芸術の素晴らしさを満喫していただけるよう、毎月展示替えを行い、所蔵品を中心にバラエティーに富んだ企画展を開催して参ります。
 また講演会やギャラリートークなど、関連事業も随時実施致します。
 館内には「大展示室」「小展示室」の他、「浮世絵の基礎知識」「ガイダンスルーム」があります。 エントランスホールには、浮世絵版画摺りの技術をやさしく理解できる「版画体験コーナー」を設置するなど、“広重”や“東海道”をキーワードに、江戸文化への理解を深めて頂ける工夫がされています。 また「ミュージアムショップ」では、オリジナルグッズの販売もしております。

(以上、「静岡市東海道広重美術館」公式HPより)

   
明治天皇御小休止碑。常夜燈。                     馬の水呑み場。



 その本陣の向かいにあるのが、由比正雪の生家と言われている「正雪紺屋」。



 表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より四百年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。
 慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれともいわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。

 平成6年3月 由比町教育委員会

 ところで、「慶安事件」とは

 慶安4年(1651年)、由井正雪が首謀者となって、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆を計画した事件。「慶安の変」「由比(由井)正雪の乱」とも。
 由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来ていた。しかし、正雪は仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。
 この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して否定的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。
 正雪はそうした浪人の支持を集めた。特に幕府への仕官を断ったことで彼らの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。
 そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子徳川家綱が継ぐこととなった。次の将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆、浪人救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、という作戦であった。
 しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)7月23日にまず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その前日である7月22日に既に正雪は江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府梅屋町の町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊したが、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、8月10日に丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫した。
 また、駿府で自決した正雪の遺品から、紀州藩主徳川頼宣の書状が見つかり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後に、この書状は偽造であったとされ、頼宣も表立った処罰は受けなかった。
 江戸幕府では、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人・別木庄左衛門による老中襲撃計画)を契機に、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らの掲げた理念に沿った世になっていった。

(以上、「Wikipedia」参照)

「脇本陣温飩屋(うんどんや)」。

 脇本陣とは、副本陣という意味です。
 由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒ありました。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この温飩屋です。
 東海道宿邑大概帳(天保12年、1841、幕府編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪90坪、門構え、玄関付きとあるのがここだと思われます。

 平成8年3月 由比町教育委員会

東方向を望む。

その先には、「脇本陣羽根ノ屋」。

 脇本陣とは、副本陣という意味です。
 由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒ありまし た。そのうち江戸時代後期になるころ、徳田屋に代わって、つとめたのがこの羽根ノ屋とおもわれます。
 この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根ノ屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本 陣を願い出たことが史料にあります。

 平成7年1月 由比町教育委員会 

 この他にも興味深い(面白い? )建物がいくつか。

   
            「由比宿おもしろ宿場館」。弥次喜多にあやかった人形がお出迎え。

「明治の郵便局舎(平野氏宅)」。

 江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟
一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
 明治4年3月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便局取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。
 明治39年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年7月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている。

 平成17年1月 由比町教育委員会

 
   
    「清水銀行由比支店」店舗。

 [国の登録有形文化財]平成9年9月3日登録

 ・・・
 この建物は、西洋の古典様式を基調とする意匠で、その正面には4本のイオニア式の柱頭を飾る柱を据え、水平に3つの帯で分けている。・・・簡素ながらも、典型的な新古典主義の様式である。こうした昭和初期の銀行デザインは日本の資本主義の台頭を示すものであろう。
      清水銀行

 去年、北九州市に行ったときに見た銀行(旧「安田銀行八幡支店」)の外装、デザインとよく似ている。煉瓦つくりならば、見間違うほどである。
 ここにもあるとおり、資本主義の発展には銀行が大いにその役割を果たした、地域にあってもその存在が目立つものであったに違いない。由比には、日本資本主義の草創、発展期の「郵便」と「金融」の二つの大きな足跡が残されている。

「加宿問屋場」跡。
 
「由比宿」案内版。

 「江戸後期 由比宿 宿割地屋号」の一覧表。1軒1軒の屋号や商いの種別など細かく復元されているのには、ビックリ!

 しばらく行くと、宿場の西のはずれ。

 天保12年(1841)に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比町の町並みは東西5町半(約600㍍)とあります。その宿場の西の木戸(通行人の出入口)が、この先の桝形(曲がり角)の所あたりだったと思われます。
 旧東海道は、その桝形を左折して坂道を下って由比川の河原に出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと、この仮板橋は取りはずされました。このように由比川は徒歩で渡りましたので、歩行(かち)渡りといっています。
 歌川広重の版画の行書版東海道の「由井」には、この情景がよく活写されいます。また狂歌入り東海道には結城亭雛機(ゆううきていすうき)という人が、

 ふみ込めば 草臥(くたびれ)足も直るかや 三里たけなる 由井川の水

という狂歌をのこしています。

 平成8年3月  由井町教育委員会

 脇にはこんな行き先表示。

 橋の脇には、常夜燈。遠く左前方には、「薩埵峠」付近が見えてくる。

    

小池邸。あかりの博物館。藤屋。西倉沢一里塚跡。・・・(新蒲原から興津まで。その3。)

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 由比の宿場を過ぎてからJR由比駅までけっこう距離がある。
 「由比」は、「桜エビ」がウリの町。ぜひ食してみようと思ったが、あまり食堂が見当たらない。そうこうしているうちについに駅前に。駅前には食堂一軒あるのみ。時間も中途半端なのでそのまま「薩埵峠」方向へ進むことに。コンビニのおにぎりもまだあるので。

 道沿いにあった大きなおうち。

「せがい造りと下り懸魚(くだりげぎょ)」

 せがい造り
 軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし垂木を置いたもの。
 民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。

 下り懸魚
 平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
 稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。

 平成4年3月 由比町教育委員会
 

  
           せがい造り。                     下り懸魚。

「桜エビ」の看板はそこかしこに。

 この付近を歩いていると、間口が狭く、奥行きがある家並みに気がつく。

   

 通りに面して家を建てるケースと家の前を駐車スペースにして奥に建てるケース・・・。新旧問わず、そんな建て方が気になった。家と家の間も、狭い! 京都ではないが、古い町並みには多く見かける。ここまでの道中で見たような、通りに間口を広くどんと開けて建っている家は少ないように感じられる。それとも、この一角だけなのか?

「由比太郎左衛門屋敷跡」。

 「由比太郎左衛門」家は、代々由比・今宿の加宿問屋職を務めた家。由比で生産された塩の販売権を持っていて、由比家は、塩を敵方の武田家にも売ることにできる「半手商売」で繁栄した、らしい。

 「敵に塩を送る」という「逸話」とは、ちょっと違う? ←これは信州の上杉と甲斐の武田との関係で、商売上手だったのだ、由比氏は。

JR由比駅は、左手奥。

 その手前。こんな立て札が。

 いくら禁止し、鎖を取り付けても壊されてしまい、線路を渡る人がいるのだ。

 昔、子どもの頃、近所にもこんな場所があった。踏切に回るのはめんどくさくて、つい、線路を渡っていく。何度も禁止の立て札やフェンスが取り付けられるが、いつか壊されて、線路脇に立てられた枕木と枕木とのすきまから渡れるように。
 けっこう電車の本数が増えて来た頃で、危険きわまりない行為だった。
 それも、簡単に壊されないようなごついフェンスに代わり、いつしか高架線になり、遠い昔の話になってしまった。ついそんなことを思い出して、パチリ! 

 線路の向こうは、由比漁港。

                     駅付近は「今宿」。

「桜エビ」のモニュメントが頭上に。

 何だか雲行きが怪しくなってきた。

 駅前を過ぎ、来た道を振り返る。

「薩埵峠」への道。

 歩道橋を渡り、狭い曲がった道に入って行く。

「寺尾」(昔の海道をみる)。

 ここ寺尾には、昔、南方寺という真言寺があり地名の起源になったと伝えられている。
 昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和3年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。
 現在の街道は当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみることができる。

 平成4年3月  由比町教育委員会 

 

  
         「小池邸」。

 「国登録有形文化財 小池邸」

 小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
 この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました

  静岡市 

 庭には、「水琴窟」があり、小石の上に水をたらし、備え付けの竹筒を耳にあてがうと爽やかな澄んだ響きが聞こえる。

 すぐ向かい側にある「あかりの博物館」。

 「小池邸」は、じっくり見学させてもらったが、ここには入らずじまい。

・由比宿 東海道 あかりの博物館

暮らしを支えてきた"あかり"を観賞
提灯、油あんどんなど、なたね油、ローソク、石油のあかりの点灯展示を観賞しながらあかりの歴史が学べる博物館。東海道の旧宿場町由比の街中、大正8年に建てられた民家を移築した趣のある建物です。
たき火からかがり火へ。ローソクから電灯へ。さまざまに姿を変えながら、いつの時代も変わることなく暮らしを支えてきた"あかり"。
古灯具を中心に1000点以上が展示され、日本の古今のあかりの様子がわかります。火おこしの実演も見学できます

(以上、「myたび 静岡 shizuoka.mytabi.net」HPより)

・「静岡新聞NEWS」より

 夫の遺志継ぎ「あかりの博物館」再開 静岡・由比 (2015/1/ 5 16:14)

亡き夫の遺志を継ぎ、博物館を再開した片山嘉子さん=昨年12月18日、静岡市清水区の由比宿東海道あかりの博物館
 昨年9月に亡くなった「由比宿東海道あかりの博物館」(静岡市清水区由比寺尾)の片山光男館長の遺志を継ぎ、妻の嘉子さん(72)がこのほど、館の運営を再開した。オープン以来、夫婦二人で切り盛りしてきた施設。嘉子さんは「主人が情熱を傾けた博物館。自分が元気なうちは頑張りたい」と語る。
 同博物館は電気関係の会社を営んでいた光男さんが「明かりの文化を後世に残したい」と、1996年10月に開いた。全国各地を回って集めた照明具など3千点以上の中から、厳選した約千点の“明かり”を紹介している。たいまつ、燭台(しょくだい)、ガスランプ、LED(発光ダイオード)照明−。人々の暮らしとともに変化した明かりの文化が一目で分かる。
 展示以外に、器具の解説や火打ち石を使った火おこし体験などを行い、来場者をもてなした。これまでに5万人以上が来館し、旧東海道由比宿の名物スポットに定着した。
 光男さんが亡くなり休館したが、嘉子さんは「家でじっとしていたら、主人に怒られてしまう」と昨年12月、再開を決意した。開館以来ほとんど休まずに光男さんが育てた博物館について、嘉子さんは「主人の意思でこれだけのものを集めた。多くの人に見に来てほしい」と話す。
 開館時間は午前10時から午後3時。入館料は高校生以上が500円。中学生以下は200円(大人同伴なら無料)。月曜定休。臨時休業あり。問い合わせは同館<電054(375)6824>へ

 こういう小橋を何度か渡る。 

 道沿いは、古い家並みが続く。新築の家もこの地域の伝統を損ねないようにつくられている。

「間の宿本陣跡」。

 ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を賞で旅だっていった。
 ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣とも呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。

 平成4年3月  由比町教育委員会

新旧入り交じった、それでいて落ち着いた家並み。

「明治天皇ご小休跡 柏屋」。

 江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
 明治元年及び11年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
 明治15,6年頃、静岡県令大迫貞清(おおさこさだきよ)が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところら、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。

 平成4年3月 由比町教育委員会

 これから先、ミカンに混じって、ビワの木が植えられていることに気づく。
 
 「薩埵峠」への上り坂の左手前にあるのが、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」。

   

間の宿 藤屋

 薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶茶店を営み、礒料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物にしていた。
 ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。

 平成4年3月 由比町教育委員会
 
 また、「藤屋」には幕末、官軍に追われていた山岡鉄舟が座敷の地下から舟で清水に逃げたというエピソードもあり、鉄舟の残していったピストルも展示されている、らしい。

 上り坂の右手にあるのが「西倉沢一里塚」跡。

 日本橋から数えて40番目の一里塚。「薩埵峠」東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。

  

 「ふるさとを見なおそう」

 戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。
 峠は磐城山・袖崎ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものはあまりにも有名です。
 山の神 薩埵峠の風景は 三行り半にかきもつくさじ 蜀山人

 昭和48年4月 倉沢区倉和会
 

薩埵峠。(新蒲原から興津まで。その4。)

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 いよいよ「薩埵峠」。

 最初は、急な上り道。そのうちゆるやかになり、山肌を巻くように進む。
 はるか目の下には、駿河湾と「東名」、「国道1号線」、「東海道線」が見えてくる。

 少し上り坂が続いて、しばらくすると、駐車場。
 そこまでは、両側がたわわに実ったミカン畑やビワの木々に囲まれた山道。

 時折、上り下りする自動車、軽トラには要注意。軽トラは農作業らしいが、タクシーは通るし、マイカーは通る。

 のんびり景色を眺めながら歩いていると、クラクション! 観光目的ならそんな長い距離でも標高差もあるわけでもない。景観をじっくり楽しみながら歩けばいいのにねえ。
 
振り返ると、富士山のてっぺんだけがかすかに。

日差しは出てきたが、富士山付近は厚い雲に。

 右も左も急な斜面にミカンの木がたくさん植えられている。今がちょうど収穫期のはずだが、人の気配はほとんどない。
 運搬用のレールがあちこちに。収穫するのは人の手だからたいへんな農作業。使われなくなり、すっかりさび付き、使用されていないようなレールもけっこう見かける。

  

途中にあった案内絵図。

「薩埵山合戦場」。

薩埵山合戦場

 古来、ここで二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義(ただよし)が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍は敗退した。
 二度めは永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺(せいけんじ)に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。
 そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州に引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。

 平成17年12月 由比町教育委員会

 しばらく上ると、見晴らしの良いところへ。

道標。「さつたぢざうミち」とある。

 これまで、薩埵峠には4つのルートがあった。

①薩埵地蔵道/由比、蒲原の人が北西にある東勝院にある地蔵へお参りに行くための道。

②上道/1654年幕府が朝鮮通信使を迎えるため開いた道。参勤交代の大名も通った。

③中道/1682年東海道として整備した道。朝鮮通信使のために整備したともいわれている。現在の峠道として歩いているルート。

④下道/古来より使われていた「親知らず子知らず」(潮の満ち引きのあいまに岩伝いに進む、という難所中の難所)の道。安政の大地震(1855年)で2m程隆起してからは常時通行できるようになり、のち、国道1号線(東海道)となる。現在、JR東海道線の線路付近。
 
 こうみると、「薩埵地蔵道」という道標の本来の位置は、もう少し北西側にあったものではないかと思われる。

 また、この「薩埵峠道」(中道)も、海沿いの「下道」が危険なく通行できるようになった以降(江戸末期から)は、「中道」は廃れ、近隣の人々が利用する農道になった。特に、明治以降はミカン畑などの整備、拡張に伴い、道幅も狭くなったり、改修が進んだ。

 その後、「国道1号線」が拡充整備されたり、「東名」が出来たりなどで、国道を歩いての通行が困難になってしまい、再び、歩行者用として「中道」が整備、復活され、さらに、広重の浮世絵効果も手伝って、観光客用にいっそう歩きやすい道になった。

 かつては峠西の下り坂などは、木も生えていない「はげ山」を下る、コンクリートで固められた道だったが、木々も植えられ、階段や手すりも整備されたため、ずいぶんとかつてとは趣を異にしているようだ。


 ところで、「薩埵」とは、

 サンスクリット語で、菩提薩埵の略。菩薩のこと。仏教において一般的に成仏を求める(如来=仏になろうとする)修行者のことを指す。

 「薩埵地蔵」は、「地蔵菩薩」と同意?

 ようやく、駐車場に到着。

 晴れていれば、富士山も見えて、絶景なのに。かすかに頭だけが雲の向こうに。無人販売所で100円玉を缶に入れて、「ミカン」を食べ、おにぎりを食べる。たくさんの人がいて、いずれも残念そう(でもないか)。

 駐車場の先の遊歩道を進む。西への下り道。

    
    展望台から。  正面には富士山が(見えるはず)。眼下には、東海道線。国道1号線。東名。 

 これが、有名な広重の絵とほぼ同じで、富士山が見えれば、感動的な「構図」。

      

 目の前には、駿河湾が広がる。 

                       

 何とか富士山を撮ろうと2,30分待ったが、晴れ間はあっても、富士山にはいっこうに雲がかかったまま。時折、頂上付近が見えるだけだった。

 しかたなく、下ることに。

途中の道標。「薩埵峠」。近くには「四阿」。

薩埵峠

 薩埵峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ヶ原の戦から間もない慶長6年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
 薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。

風光明媚な絶景の地

その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。

 田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 
         不二の高嶺に 雪は降りける

 また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(太田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。

 山の神 さつた峠の風景は
        三下り半に かきもつくさじ


 この「狂歌」に関連して、

① 薩埵という名称が「去った」と読めて語感が悪いという理由で、江戸時代末期の和宮の徳川家茂への婚儀の行列はここを通らず、「中山道」を通過した、という。

② 「山の神」は、女神として信仰され、また恐ろしいものの代表的存在であったことから、中世以降、口やかましい妻の呼称として「山の神」と用いられるようになった。

③ 「三下り半(三行半)」は、離縁状の俗称。 離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このように称される。 もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではない。離縁まではしなくても、愛想をつかしたという意思表示程度でも「三行半をつきつけた」といわれるようになる。

④ 「かきもつくさじ」は、「書き尽くせない」の意。
 さて、狂歌全体の解釈は?


「牛房坂」。

振り返って望む。

 もともと旧道は4㍍ほどの幅があったらしい。ところどころにかつての道幅に沿って石垣が残っている。
 
   

 眼の真下には、道路、線路。目がくらみそうなほど下の位置に。



 この辺りは、「地すべり危険地帯」。大規模な土砂崩れが発生すれば、そのまま交通網を直撃する地帯。今後予想される大型台風や東海大地震の備えはどうか?

※ 昨年の10月のようす。「静岡新聞NEWS」(「静岡新聞」HPより)

<台風18号>静岡県内横断 東海道線土砂崩れ
(2014/10/ 6 14:50)

 大型で強い台風18号の接近に伴い、静岡県内は6日未明から暴風域に入り、午前8時すぎに台風の中心が浜松市付近に上陸した。静岡市の山間部付近で1時間110ミリの「記録的短時間大雨」を観測するなど各地が激しい雨に見舞われた。20市町が約35万世帯計約83万人に避難勧告・指示を出し、県と静岡地方気象台は25市町に土砂災害警戒情報を発表した。

・・・

 雨の影響で、土砂崩れも多発した。静岡市清水区の薩埵峠西側付近では、JR東海道線の上下線が土砂にふさがれた。


JR東海道本線の線路がふさがれた土砂崩れの現場=6日午前10時40分ごろ、静岡市清水区

・・・

 交通機関にも大きな混乱が生じた。東名高速道は高波と雨量規制により豊川インターチェンジ(IC)―沼津IC間が、新東名高速道は全区間が通行止めになった。
 JR東海静岡支社によると、東海道新幹線は午前6時15分ごろ、静岡―掛川間の雨量計が規制値に達し、午前10時半現在、品川―静岡の上下線で運転を見合わせている。東海道線と身延線、御殿場線はそれぞれ始発から運転を見合わせた。伊豆急行も始発から、静岡鉄道は午前7時半から、運転を見合わせた。


 この地域一体では、現在、大がかりな地すべり対策事業が行われている。

 しばらく山道を進む。

「薩埵峠」。

 薩埵峠は、古くから美しい眺めの場所として受け継がれてきた。薩埵峠からの富士山への願望は、前面の東名高速道路とバイパスにより近代的な構成となっているが、駿河湾と富士山は不変の景観財産として存在し、時代を超えて共有できる眺望景観として、将来にわたり大切に守っていくべき重要な場所であることから、眺望地点として指定する。

 ずいぶんと大仰なモニュメントではある。この先の方が眺望はよさそうだが。

 岬の端を回るような地点に記念碑。正面は青々と広がる「駿河湾。」を一望する絶好の地点。

            

振り返って望む。

途中にあった二つの説明板。

「薩埵峠の歴史」。

これは右手のもの。左手には「薩埵峠の合戦」の説明板。

薩埵峠の歴史

 鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。

 (岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)

 ここに道が開かれたのは1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
 この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。

    興津地区まちづくり推進委員会

何度目かの「薩埵峠」碑。

 この先、急な階段を下ってゆく。
 結局、富士山の全貌は見ることが出来なくて、残念!
                              

興津の薄寒桜。女体の森。身延道。興津の一里塚。(新蒲原から興津まで。その5。)

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 足を踏み外したら転落しそうな、急な階段を下りきると、大きな墓地の一角。新しく造成された墓地のようだ。

「案内図」。休憩施設も備わっている。

 直線の下り坂。「往還坂」。振り返って望む。

 下りきって左の道。かつての「下道」に通じる道。

 そのまま進み、左折すると、JR東海道線の踏切に(本来はまっすぐ進む道が旧道)。旧国道1号線に出る。その先は、「興津川橋」。

 橋のたもとの案内版。上、中、下道の解説。

 

「興津川橋」。向こうの橋は、国道1号線。

当時は人足による川渡し。川の水量により運び賃が変わっていたらしい。JRの鉄橋の辺りがそのところ。

広重「奥津」(「Wikipedia」より)。
 奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原が描かれている。

 「興津川橋」を渡って右の下り坂から東海道線沿いに進む。

    

おそらくこれが旧東海道らしい。そして、合流する通りは「国道1号線」。その先、左手にあるのが、

「興津の薄寒桜」。

 平成12年2月植樹

 この樹は1912年(大正元年)ワシントンのポトマック河畔に当時尾崎東京市長が桜の「苗碑を寄贈する為、当地の農水省果樹試験場にそれの育成を懇願された際の一種である。
 従ってこの時の苗木はポトマック河畔の桜と同年生まれの兄弟である。尚、この薄寒桜はその子供に当たる

   興津商工会

 「米国、ワシントンの「桜」と清水区、興津の「薄寒桜」は兄弟だった! 」

 日米友好のシンボルとして、日本の桜がアメリカに送られたことは有名ですが、その苗木が興津で生産されたことは、意外に知られていません。

~~~日米友好の桜の誕生の地、興津~~~

 日本の桜の苗木がアメリカに送られたのは、1912年(明治45年)、いまから100年前のことです。
 この苗木が作られたのは、静岡市清水区にある「果樹研究所カンキツ研究部興津」(通称、興津カンキツ試験場)。担当したのは熊谷八十三技師でした。
 実は、東京興農園より2000本の苗木が明治43年にも送られたのですが、農薬のない時代、苗木は船上で病害虫が大発生し全て焼却処分されしまいました。
 日本の威信をかけて再度送るため、苗木づくりを興津カンキツ試験場に委託されたのです。大変な労苦の甲斐あって明治45年6040本(59種類)を送ることができました。病害虫の発生もなく無事に到着でき、ワシントン、ポトマック河畔に植えられました。
 ワシントンに贈られた苗木と兄弟とされる苗木が、興津カンキツ試験場に残されましたが、戦争を経てほとんどが枯死してしまい、薄寒桜一本だけが残りました。
 残ったこの薄寒桜をなんとか残そうと頑張ったのが、今は亡き青木氏でした。(静柑連技術者 )
 当時青年だった佐野林作さんは、青木さんのことを知り、青木さんの思いに感銘を受けて行動をともにしたのです。接ぎ木から増やした二世は薩埵峠にも植えられました。
 佐野さんは、日米友好のシンボルである桜の100年の歴史は、興津の歴史でもあるこの桜を大切に次の世代に伝え、「興津から世界に羽ばたくように」との願いを込めて、「薄寒桜を育てる会」を立ち上げたのです。
 興津の海岸沿いは、バイパスが通ることとなり、歴史的にも有名な座漁荘や清見寺を代表する建物、風光明媚な海浜は、変容してしまった。
 連合自治会の副会長を務めていた佐野さんは、以前の興津を再建したいと、国や県に対し交渉を続け、人口海浜の着手など、「地域町並みデザイン推進協議会」にかかわり、自らができることを実践すべく、平成12年に「緑化推進事業」のなかに「薄寒桜を育てる会」を取り込み、地域ぐるみの活動を始めたのです。清見潟公園を中心に植樹を始め、今では町内、興津川沿いなどにも1,000本ほどが植えられているそうです
 その後、商工会議所の地域の町おこしと連携し、「興津 薄寒桜まつり」が始まりました。今では来場者が3万人を超える盛況となっているそうです。
 接ぎ木で増やした二世は、由比の薩埵峠にも(15本ほど)植えられました。一月に咲く、日本の中でも最も早いとされる薄寒桜は、峠でも見事に成長し咲き誇っていました。
 今では、ハイキングに来る人々を楽しませてくれています。

(「興津の薄寒桜 100年の歴史 - 健康いきいき心ときめき www.kenkouikigai.jp/archive/03/039EAWW3K7OLYN.asp」より)

 このいきさつは、初めて知った。

右手にある「女体の森 宗像神社」。

「女体の森」とはいかなるいわれが。

 創建は平安時代中期といわれ、祭神はスサノウノミコトの子の3人の女神(宗像三女神)で航海安全の神。女神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われている。江戸時代に木、豊穣、音楽、知恵、水の神として信仰する弁天信仰と同化され、境内の森を「女体の森」、池を「弁天池」と名づけている。
 地元の漁師は、神社の森やクロマツを灯台代わり目印にしていた。

 実は、パソコンで「女体の森」を打ったら、こんな記事がトップに。

Amazon.co.jp: 女体の森: みうらじゅん, リリー・フランキー: 本.
          

 本書は、『週刊SPA! 』の「グラビアン魂」の対談中から厳選して収録したものです。
「グラビアン魂」とは、グラビアをこよなく愛する者たちの代表、みうらじゅん&リリー・フランキー両氏による巻頭グラビア企画。
 これまで約7年半、のべ300人以上の「グラドル」と呼ばれる女性たちについて、時にそのパーツの造形美を、時にその女性が喚起させる妄想を語り尽くしました。
 その途方もない時間を費やして、粋人たちが出した「美女」の定義とは一体!?
 これは、世界最高水準の知的エロトーク集なのです。

 ?? こっちの方が面白そう! 

 それにしても、「女体の森」はインパクトがありすぎ。東海道の「旅人」にはけっこう受けているらしい。

 不謹慎でした

 しばらく進むと、右手に「身延道」碑。「題目碑」など所狭しと建てられている。

  

身延道

 身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、 鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道として使われるようになった。

 その先の右手には、「興津の一里塚」跡。

日本橋から41番目の一里塚。

来た道を振り返る。

 午後3時少しの前の空はすっかり晴れ渡り、次の17番目の宿場・「興津宿」に入っていく。

 品川―川崎―神奈川―保土ケ谷―戸塚―藤沢―平塚―大磯―小田原―箱根―三島―沼津―原―吉原―蒲原―由比―興津。

 やっと3分の1弱。距離にして約164キロメートル。

興津宿。もくネジ。本陣跡。一碧楼水口屋。清見関跡。更級日記。・・・(新蒲原から興津まで。その6。)

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JR「興津駅」に到着。駅前の小公園で小休止。大きな案内版の中に、特産品の紹介に並んで、「もくネジ」が興津の主力産業とか。

 「ネジ」の漢字は「螺旋」。「らせん」。「螺」は、タニシ(田螺)やサザエ(栄螺)のような巻き貝の貝殻。

 「もく(木)ネジ」=木材にねじこむのに適した先端形状とねじ山をもった小ねじ。


 弊社の製品は、住宅・建材をはじめとして建築、住設機器、自動車、電気製品、ホームセンターなど、様々な業界で活躍しています。
 昭和14年に木ねじ工場としてスタートした当社がステンレスねじの可能性に着目したのは昭和42年のこと。その後、よりきめ細かにお客様のニーズに応えてゆけるようにとステンレスねじ一筋で歩み始めたのが昭和55年のことです。現在、興津螺旋はステンレスねじ業界において国内No.1の生産量を誇ります。
 ねじは極めてシンプルな基盤部品であり、目立つことはありません。しかし、ときに「産業の塩」と呼ばれるほど、私たちの社会生活に決して欠かすことのできない重要なものです。
 興津螺旋は、当社のねじを愛用してくださるお客様はもちろんのこと、ひとりでも多くの人たちにさまざまなかたちで貢献し、より大きな満足と喜びを届ける企業を目指します。人々が安心して豊かな生活を営むことができるよう、私たちは常に切磋琢磨を続け、日本一の山、富士山を望むここ興津から、より高品質なねじ部品を供給し続けます。

興津螺旋株式会社(おきつらせんかぶしきがいしゃ)
〒424-0204 静岡県静岡市清水区興津中町1424  電話054-369-0111 FAX054-369-0116(代) 

(以上、「興津螺旋株式会社」HPより)

 なるほど。

 興津には、木ネジ製造の協同組合組織もあるようだ。

 さて、本題。  

一直線の旧東海道・興津宿。

右手の小公園が「興津宿公園」。

位置 
 北緯35度3分00秒 東経 138度31分10秒 海抜 4.793m
 東の由比宿に2里12町(8㎞と120m)
 西の江尻宿に2里2町(8㎞と20m)

由来
 東海道五十三次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。
 地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。

 位置などをここまで詳細に記載したものは初めて見た。さすが本場の「木ネジ」らしい精密さがうかがわれる。



 興津宿の由来 興津区まちづくり推進委員会

 慶長6年(1601)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて17番目の宿である。
 参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。
 ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。
 この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津島姫命)ここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたのでその名を地名としたとの説もある。
 古代からの呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。

「沖津宿案内版」。

 これによると、この公園の位置は、当時の「伝馬所」跡に当たるようだ。当時の屋号など詳細に復元されている。

「府中屋」。

                        

  
                         「沖津宿東本陣」跡。

  
                         「沖津宿西本陣」跡。

  
                         左手前にある「一碧楼水口屋」跡。

「沖津宿脇本陣水口屋跡・一碧楼水口屋跡」。

 水口屋初代当主は、武田信玄の家臣、興津砦の主であり、武田家亡き後、塩や魚などを甲斐へ物資を送る商人だった。江戸時代には脇本陣、明治以降は、政治家、皇族、財界人、小説家、画家などの各界著名人の別荘旅館として愛され、昭和32年の国体の天皇皇后陛下の宿舎としても選ばれた。
 第二次大戦後、占領軍に接収されたなか来日したアメリカ人オリバー・スタットラー氏が昭和36年に「JAPANESE INN~東海道の宿 水口屋ものがたり」を出版し、評判となり、多くの外国人観光客が訪れた旅館だったが、昭和60年に廃業し、現在はギャラリーとして代々水口屋に受け継がれた資料を公開している。

 しばらく進んだ、向かい側に「(日本橋から)166㎞」ポスト。

 右側の駐車場にある朽ちる寸前のような標柱。

 左は「榜示杭」跡、右には「清見関跡」とある。つい見逃してしまいそうな標識。表面の字もかすれ、特に説明文等も見当たらなかった。

 そこで、

清見関(きよみがせき)

 駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名称。
 跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 - 686年)に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。
 1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
 その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失なったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。
 設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。

(以上、「Wikipedia」参照)

『富士の山はこの国なり。わが生ひいでし国にては西面に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さま異なる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。
 清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。
 田子の浦は波高くて、舟にてこぎ巡る。
 大井川といふ渡りあり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、速く流れたり。』

(菅原孝標女『更級日記』より)


   
                        道路側にある案内版「東海道 興津宿」。

興津宿の歴史

 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち17番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。
 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は板東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。
 鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。
 慶長6(1601)年東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。
 江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。


東海道五十三次について

 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。
 なかでも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。宿駅の数は次第に増え、寛永元年(1624)に53を数えるようになりました。東海道五十三次の誕生です。
 以来、東海道53次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって飛躍的な発展を遂げました。

興津宿の規模

 東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2キロ)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿に至ります。
 また、西の江尻宿には1里2町(4.2キロ)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
 興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2キロ)人馬継門屋場1ヶ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人匹
 天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)でした。

「清見寺」。

 徳川家康の幼年時代に教育を受けた「手習いの間」があり、家康公が接木したと言われる「臥龍梅」、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの文化財があり、境内全域が朝鮮通信史関係史跡に指定されている。
 朝鮮通信使、琉球使節が訪れ、寺内に朝鮮通信使の扁額が残っており、異文化の窓口でもあった。この寺は三葉葵の紋を許され、徳川家の帰依をうけていた。

朝鮮通信使とは…

 家康の要請により1607年から約200年間12回、国賓として来日している。清見寺で宿泊し、地域の人たちと儒学・医薬学、詩文、書画等の交流を、夜を徹して行われた。隣国同士が約260年もの間平和で対等な交流を行っていたことは世界中でも珍しいことである。

 「興津駅」に戻る途中に見かけた老舗のお米屋さん。

「米屋博物館」でもあるらしい。

 今回は、ここまで。

薩埵峠再訪。その1。

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        東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺 / 歌川 広重

 薩埵峠は一方は山高く、一方は大海に望む東海道の「親不知」といわれる難所である。峠からの眺めは、五十三次中で最も美しいといわれている。遠くの富士山と青い海と白い帆掛船。そそり立つ崖の上の道を旅人と村人が通る。風雨に耐え立つ二本の松は、さらなる難路を想像させてくれる。
(「」HPより)。

  
  大正期の由井                       左の撮影地点の現在のようす。
「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より 

 当時、はげ山同然の山肌を整地し、ミカン畑を造成中。現在は、このように緑も濃いみかん山になっている。峠への道は現在とほぼ同じか?


 前回来た時は、惜しくも富士山が雲に隠れて見えずじまい。そこで、快晴の日を狙って再び訪問した。「薩埵峠」再訪。思った通りに晴れ渡って、最高の日だった。

木の間越しの富士山。
 右手は東名、国道1号線、東海道線。

  
                間の宿・寺尾の集落も明るい日差しの下。

「柏屋」。

「藤屋」の「なまこ壁」。

裏手から見る富士山。
 2階からの眺望がいいのだろう。右は東海道線の架線。

 上り坂の途中からの富士山。真っ白な富士山が遠くにくっきりと。



 「地すべり対策事業」が盛んに行われているようす。かなり見上げるほどの急斜面。
   
         完成した工事区間(峠の途中)。    工事車両の入るのも厳しい条件下での工事らしい。

はるか下には、東名、国道1号線。

振り返ると、富士山。

たわわに実ったミカン畑。

   
                         駐車場からの富士山

 少し先に進み、展望台からの眺め。
  
 海岸沿いは、左からJR東海道線、国道1号線、東名高速。

 トリミングして、広重の絵とほぼ同じ構図にしてみたが。

           

左手の木は特産品のビワ。 

薩埵峠再訪。その2。

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 青々と輝く駿河湾。対岸は、伊豆半島。

   

 遠くに見えるのは、「愛鷹山」。その右奥に小さく見えるのが、「箱根連山」。その向こうの小田原から箱根を越え、ここまで歩いてきた(断続的ではあるが)、という「実感」。

                    頭上には、トンビが悠然と。

 少し興津側に進んだところ。

椿の花と富士山。

  
                 遠く「清見潟」から「三保の松原」方向。

   
 興津側への下り口。階段状になっている。その周囲にはワシントン・ポトマック河畔の桜と同じ「薄寒桜」の木が植えられている。

 薩埵峠。今回のようにミカンがたわわに実る季節もいいが、ビワの実がなる季節、桜の咲く季節もさぞかしすばらしいに違いない。富士山を遠くに見ながらの季節の旅もまた、よさそう。

  

 時の過ぎるのも忘れてしまうほどの景色。そういえば、女性お二人、海を眺めながら四方山話に興じていた。

  
        伊豆半島・波勝崎方向。             愛鷹山方向。

 そろそろおなかも空いてきた。峠の突端のようなところから再び戻って、「由比」駅へ。

木々の間からの富士山。心地よい遊歩道が続く。

 足元には、スイセンの花が咲き乱れている。

「山の神」碑。

    ビワと小松と灌木と。

こっちの方が広重に近いかな?

 再び駐車場へ。「サントピアゆい」の旗。

薩埵峠再訪。その3。

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 同じ道を下っていく。今度は、正面に富士山。

 そのため、人によっては、「由比」側からではなく、「興津」側から上った方が感動が大きい、という。

 あえぎあえぎ上っていくと、突然、視界が開け、目の前に駿河湾と富士山が。その景観を堪能したのち、正面に富士を見ながら下って行く・・・。

  

 すると、目の前に二人の若い女性。二人ともそれぞれ大きなキャリーバッグ(海外旅行用くらいの大きいもの)を引きながら上ってくる。足元はしゃれた靴。

 「すいません、展望台はまだですか」
 「もうちょっと先だよ。でも、その先は階段になっているよ」
 「えっ、じゃあ、この道を引き返すしかないかなあ」
 「君たちなら、えいっやーって持ち上げて下って行けるよ」
 「ありがとうございます」

 さてその後、どうしたか? 後ろ姿をパチリ!  

松。先端が折れてしっまっている。
  
  
                         ミカンとビワと富士山。

中には大きなミカン? 

峠の坂道もそろそろ終わり。
 
 再び、間の宿へ。

 上るとき、目星をつけていた食事処「くらさわや」。

 午後1時30分にもなっていたので、すぐ入れた。桜エビのかき揚げと魚と野菜の天ぷら。それにビールと地酒「正雪」の濁り酒。腹ぺこだったので、一気に呑んで食べて・・・。写真を撮り忘れた! 半分くらいになった桜エビのかき揚げ。

さくさくとした食感、歯ごたえが最高。

 このまま食べても、ちょっぴり塩味がきいていて、磯の香りも漂う感じ。お酒も美味しかった。

 昨秋は不漁で、恒例の桜エビのお祭りも中止だったとか。ここのお店でも「かき揚げ」は、一人、一品限りとなっていた。

 桜エビ漁はきちんと管理され、ここの産のものしか獲ることが出来ない仕組み。それ故、「特産品」として大切に扱われてきたのだろう。
                            

 果たして今後は?

お店の窓下。

         

 正面に富士山を望みながら、由比駅に戻る。違う季節に訪れよう、今度はじっくりと。 

「うなぎや洋品店」。清見潟。「坐漁荘」。細井の松原。辻の一里塚。・・・(興津から静岡まで。その1。)

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 今回は、「興津」駅から静岡まで。当初の目標は「安倍川橋」まで、と。結局、「府中宿」にちょっと入っただけ。せめてもうちょっと核心部くらいは、と思いました。が、久々の長い距離。足にまめが出来たようで、痛みが・・・。
 そこで、次回、宿内のジグザクコースから頑張ることにして、「江川町」交差点でリタイアして、静岡駅へ。

「166㎞」ポスト。ここからスタート。

 この先は、かつての「清見潟」あたり。その街道筋で見かけたお店、二つ。
 
「うなぎや洋品店」。
 「うなぎ」と「洋品」との組み合わせがインパクトあり。昔は「うなぎや」さんだった?

こちらは「小川梅吉式剪定鋸」。

小川梅吉製鋸所は、天保年間(1830年代)に鉄砲と丸鋸の製造から始まりました。
四代目の梅吉(1868~1923)からは、丸鋸、薪挽鋸、根切鋸等、鋸一切を取り扱っていました。
六代目の嘉吉(1903~1985)から、現在の主力商品である果樹剪定鋸の製造が始まりました。
皆様ご存知のように静岡はみかんの名産地で、当店の製品は多くの柑橘農家や研究者の方々に愛用して頂き
県内のみならず、県外からも多くの注文を受けています。

なお、七代目の一男(1931~)は、以下の賞をいただいております。
☆1996年11月 静岡県優秀技能者功労表彰(知事功労表彰)
☆2002年11月 「卓越した技能者(現代の名工)」認定(厚生労働大臣表彰)
☆2003年11月 黄綬褒章受章(技能功労)

現在、娘婿の若月克己が、家業を継いでおります。
当店の剪定鋸を末永く使用して頂くよう、目立ても随時受け付けております。
どうぞ、ご利用ください。



(以上、「小川梅吉製鋸所」HPより)

 さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。

「万葉歌碑」。

万葉集巻三
 和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌

廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし  

静岡市清水区の北部は、古く廬原郡といった。現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。

 その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり

「説明板」。

 明治33年、病床にあった正岡子規は、温暖な地・興津への移居を思い立ちました。叔父大原恒徳宛の書簡に「興津が墳墓の地」とあります。
 移転先として松川医院(現在の興津本町河村医院)の病室を、弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐らによって借りる手筈までつけましたが、周囲の反対などから興津行きは遂に断念しなければなりませんでした。
 二年後の明治35年(1902)9月19日、子規は36歳の短い生涯を終えます。
 果たされることなかった子規の想いを偲んで、野菊の歌壇を設けるとともに、病床にて詠める一句を碑に刻してここに建てることといたしました。
 〈月の秋興津の借家尋ねけり〉

 平成14年子規100年の忌日に正岡子規を偲ぶ集い
 子規の句=良知文宛書・石垣松黄刻
 野菊の花壇=興津花の会設営

 旧道に戻った左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。

 興津坐漁荘

 西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91歳の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
 坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
 坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されいます。
 そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力、ご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。

平成16年4月 

    

   
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。  現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。

 その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。

来た道を振り返って望む。
 頭上は、「静清バイパス」。

JR東海道線「横砂踏切」。

再び1号線と合流。正面には「常夜燈」。

 通りの左手にある「井上侯爵之松」
 興津にあった別荘・「長者荘」との関連があるか?

「袖師ケ浦」。
 「横砂」から「袖師」へ。興津からこの辺り一帯にかけて、白砂青松の地であったのだろう。現在、海岸線は見えない。

 しばらく進むと、「辻町」の三叉路へ。その右手に一本の松。旧道はその脇を進んで行く。

「細井の松」。

ほそいの松原(細井の松原)

 慶長6年(1601)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し、江尻宿場が設置された。同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門・奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)完成したと伝えられている。
 元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(約360米)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
 ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。
 いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。

 辻地区まちづくり推進委員会

「無縁さんの碑」。

 辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立した。

 平成14年3月 「生き活き」街づくり辻の会

 「袖師ケ浦」(西久保)からこの付近まで見事な松並木であったことが想像される。それにしても、伐採されるとは。当時は、お寺の梵鐘なども供出させれらた時代ではあったが・・・。

そこから来た道を振り返る。
 中央、通りのはるか遠くに白雪の富士山が見える。


 しばらく歩くと右側の壁に看板。

   

 秋葉道入口

 東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
 この入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
 この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶店も3,4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

 しばらく進むと、左手に看板。
「辻一里塚」跡。

 ここが日本橋から42番目の一里塚。

一里塚跡

 江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
 塚は五間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
 辻の一里塚は江戸より四十二番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。

 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

東側を望む。

 それからすぐの交差点の右側に再び看板が。ここが「江尻宿」東木戸跡。

「江尻宿東木戸」跡。

 江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
 この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。

 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

くの字かどうかわかりにくいが。
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